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ブリコラージュからみる文化の発展の違いと連続性


Bonjour ボンジュール!
リール(フランス北部の都市)は本格的に寒くなってきました。
ロックダウンが解除になり夜の外出禁止令はありますが窓から見る限り街にはひとひとひと。


「ロックダウン」→「ロックダウン解除」→「ロックダウン」を繰り返し、世間ではこの国(フランス)ではロックダウンは意味がないのではないか」とも言われています。実際にロックダウンの効果はあまり見えず、むしろそれによるストレスが原因でストライキや暴動の勢いがよりいっそう増しています。夏のロックダウン解除の際には直後のバカンスがきっかけでフランス全体に第二波としてコロナが一気に広がりました。


この冬のバカンスも隣国のドイツやイギリスとは真逆の政策を取る判断を下し冬期バカンスの影響で年末明けにはまたロックダウン宣言は間違いがないと予想をしています。

そんな状況を窓から見ながら今日は久しぶりにブリコラージュについて書かせていただきます。

ぼくはブリコラージュ(レヴィ=ストロースによる定義)という概念と出会ってから、そのイデオロギーや哲学を調べながら、実際にどのようにそれを現代社会に応用できるかを考えることがよくあります。
文化面、ビジネス面、人間関係面、あらゆるジャンルにおいてブリコラージュの哲学は活かせる考え方であり、その考えを自分の中にもっと深く落とし込みそれをアウトプットする目的もありnote ブログを日々書いております。


今日お話させていただくのは『文化的進化の連続』について。

もし文化の定義について考え議論することになると、そもそも「文化」が何をさすのかわかならなくなります。 その理由としては、人々が考える文化の定義がきわめて多様であるからであるり結論から先に言えば、文化には決定的な定義がありません。


しかしもし僕の解釈に基づいた文化だと、先祖や祖先から私たち人間が後天的に学ぶことができ、ぼくたちの世代が創造しそれを継承していると理解しています。そしてそれをぼくたちが引き継ぎ、また創造、進化、発展と次の世代につなぐ。これを続けていくことが「文化」とぼくは定義づけています。

1760年までの第一次産業革命が始まるまではその人間の文化の継承は今まで連続していました。つまり前の世代と、自分たちの世代、自分たちの次の世代にわたり常にこの継承、引き継ぎは糸のようにアナログ状につながっていたということです。点から点ではなくつねに技術や伝統、文化は連続に連なっており突発的になにかが生まれてきたということはありえませんでした。


『文化的不連続』という問題とそこに生じた矛盾

ブリコラージュによって作られたり、構築されたものは「必ずしも目的を持たず、任務を持たないものもしくは組織にも存在理由はある」という今現在の風習に逆らう形になる考え方を理解していただくために人類学の分野に少し広げて話をつづけます。

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文化人類学者のレヴィ=ストロースによると

「人類学が『未開社会』を含む世界の地域が独立し、いち国の市民として経済発展をはかろうとすると、そうした伝統的な社会つまり「文化の連続」がそれを保持しようとして抵抗しようとする。」(レヴィ=ストロース, 1962, 野生の思考より)


そしてその理由が3つあるといいます。


1:競争原理の対極としての全員一致の原則。。資本主義の対極
2:経済発展の対極としての自然への敬意
  。。神話、宗教、メディテーションの分野
3:「歴史なき社会」とされるこれらの社会による歴史や伝統の拒否

アジア諸国が「文化の連続」の社会であったのに対し産業革命以降、西欧社会がリードしてきた「文化的不連続」という思想、そしてその対極として連続性を生きる社会(アジア諸国)、すなわち飛躍的発展という思想を必要としなかった文化のあり方を提示しようとしました。


文化戦争『文化的連続』 VS 『文化的不連続』


ここでの飛躍的発展とは科学的発展つまり『エンジニア』のことです。
※「ブリコラージュ」と「エンジニア」の対比の詳細につきましてはまた別の記事で書く予定です。

文化的に人類の発展の中でつながりがあるというのは自然な流れです。しかし産業革命を機に人類の進化が文化的進化ではなく科学的進化を主流にしてきたため、連続した成長ではなく飛躍した人類の進化が主流になってきておりそれが人類の文化の発展の歯車を少しばかり狂わせているというのがレヴィ=ストロースの考え方であるとぼくは推測します。〜


今日はブリコラージュを文化という側面からを少しお話をさせてもらいました。お読みいただきありがとうございました。

Merci et A bientôt!

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