見出し画像

責任や意志の所在

・<責任>の生成ーー中動態と当事者研究 國分功一郎 熊谷晋一郎
・暇と退屈の倫理学 國分功一郎
・職場学習の心理学 知識の獲得から役割の開拓へ 伊東昌子 渡辺めぐみ
・ケーキの切れない非行少年たちのカルテ 宮口幸治
・トポスの知 [箱庭療法]の世界 河合隼雄 中村雄二郎
・反省させると犯罪者になります 岡本茂樹
・モモ ミヒャエル・エンデ
などを読んで感じたことを書いてみる。

人間は、罪を犯した時、成功した時、失敗した時、その人に責任・原因の所在があると考える。でも、果たしてそうだろうか。

冒頭に記載の本にある「中動態」や「責任」について考えていくと、社会一般に当たり前に行われている責任追求は、本当に人間の行動に対して単純的に追求できるのだろうか。私は、はっきり言って自信が無い。人間は、ほとんどの言動に対して意思をもって生きているわけではないはず。そこに、ことの矛盾の大きさを感じる。

例えば、勉強ができないというとき
 → できないのは、本人の責任かといえばそんなことはないはず。
例えば、幼児への性犯罪者に対して
 → 不良少年かといえば、ごく普通の少年、さらにいえば、知的障害や境界の場合がある。本人の責任だ!と簡単に解を出すのは容易いがそう単純ではない。反省を求めるにも、多大な時間がかかる。社会は、突き放してしまう。。。

そのほかにも、組織不正が次々と明るみになれば、「責任」の所在を明らかにさせてトップの辞任となる。これは、もう定番化されている。問題の本質・核となる論点は、責任の所在を明確にし徹底的に追求することなのだろうか。

犯罪の例でも、不正の例でも、本当の意味での反省は、ファストフードのように即座に出てくるようなことはないし、逆につらつらを述べられるような猛省は疑った方がいいのかもしれない。物事は、そう簡単に理解できない。

社会の全体的な風潮として、被害者意識に同情して
 犯罪者 → 極刑だ!
 組織不正 → 辞任をもって責任を負え!
がパターン化されている。でも、本質を見失ってはいないか。過去に対しての償いは、法に基づいて然るべき執行は必要ではあるものの、ベクトルが未来には向けられていない。

これからの未来にも、生きていくときにより良くする為には、どう考え、どう捉えていけば良いのだろうか。
もやもやとしながら、思考しつづける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?