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雑記@資本主義とソシュール言語学を添えて

最近の考えたことについて書こうと思う。まずはソシュール。彼は言語学者であり哲学者。言語の恣意性っていうのかな?、よく分からないけど、人間は言葉に定義されているって考え方。例えば、一人称何にするのか問題。今まで、「僕」を使っていた人が今日から「俺」を使いたいと思った時、「俺のくまちゃんどこあるのママ」って言えなくなるってこと。つまりは、僕や俺っていう言葉の中に予めキャラクターが組み込まれているから、それを使用する人間も、そのキャラクターに支配されるよねって話。大阪生まれの人はせっかちで面白くケチであることが美徳とされる。それは、全て言葉に組み込まれていて何を喋るかでその人の個性が定義される。


当たり前のことに聞こえるかもしれないけど、自分の好きな食べ物なんてのは、言葉にするからそれは好きな食べ物なわけで、本当は好きではないのかもしれない。けど、人間は、なんとなく昔好きだったからとか、最近好きでめっちゃ食べてるとかの理由でそれを好きと行ってしまう。

私はソシュールの「言葉で記述できる範囲ないでしか、人間は意志疎通できないし、その言葉を分かりやすく伝えることが、世の中、正義とされており、実際は自分の考えなんてもっとぐちゃぐちゃかもしれないのに、この世界は言葉にめっちゃ支配されている」みたいなことを感じとても目新しいと思った次第である。

言葉のチカラってすげーである。何でも言語化することでありもしないモノが定義されたり、人の場合、催眠の類いかもしれないが、言葉にすることで自分の意思などというものも現れてくるのだろう。



そして、話は変わるが、資本主義の怖さを感じた思いを書こうと思う。

はじめに、世の中をまとめ上げる誰かが多分いて、その人は世界中の人間を1つにまとめ上げたいっていう野望を抱いている。それは、なぜかって、最初は犯罪とか減ったり、皆が豊かに生きれるようにとかって話だったんじゃないかって思う。けど、今は資本主義。成長を効率よく行うためには、皆で協力するのが、必要不可欠になっている。資本主義の何が怖いのかって、おそらく私たちが普段使っている言葉や触れている情報が殆ど資本主義に関係しているってことだと思う。

成長が美徳とされる世界観の中で、物欲を煽動するコマーシャルや従順なプロレタリアート生成の価値観がメディアによって垂れ流されている。しかし、お金が支配している以上、稼いで持つことが正義とされるだろうし、持たないことがよしとなるケースは稀のように思う。

ここまで、だらだらと頭中の雑念を書いてきたが、結論、資本主義が悪とか言いたいのではない。多分そこには、資本主義に毒された人が多く存在していて、それを正義と認める限り、世の中の格差なんてものは永遠になくならんであろうというそんな話である。

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