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『アリアドネからの糸』(中井久夫・みすず書房)

まずタイトルについてご説明申し上げる。著者は「あとがき」で、「ご存じ……」と書いているが、私のように知らない方もいるかもしれない、と考えたからである。「ギリシャ神話の迷宮の王ミノスの娘で、迷宮の奥に怪物をさぐろうとするテセウスに、帰りの道に迷わないようにと糸を渡す」との説明が施されている。著者が「アリアドネからの糸」という題をつけたのは、「その能力がないのに、準備不足なのに、糸を渡されてしまったという感覚をこめてのことである」のだという。
 
著者にとっての3番目のエッセイ集であるという。いろいろなタイプの文章が並んでいる。精神医学についてかなり突っ込んだ内容のものもあれば、訳書に関わるギリシャ文学についてのものもある。これらは、私の近寄ることのできない分野である。関心はあるが、ついてゆけない、という意味だ。
 
本書を求めたのは、その最初に掲載されている「いじめの政治学」が読みたかったからだ。これだけを取り出して、子どもたちにも読めるように編集してある本もあるが、どうせ買うなら、中井先生のほかのいろいろな文章が味わえるものを読んでみよう、と思い、探したのである。
 
この「いじめの政治学」は、実際のいじめによる「事件」の報告書に用いられたことでも知られる、精神医学的な分析である。否、これは学術的な論文ではない。力強い主張をもつ、エッセイである。それでいて、精神医学における筆者の知識と経験と体験などに基づく、根拠をもつ発言である。阪神淡路大震災のときに注目され、心のケアの重要さを世に知らしめた著者である。PTSDという語が広まったのも、その功績であるに違いない。その観点を、「いじめ」の問題に特化して語った文章である。本書では22頁に過ぎないが、その短い中に、十分訴えるものを秘め、伝えている。
 
つまり、いじめは、心に傷を残すのである。いまでは当たり前のようにそう考えられているが、かつてはそうではなかった。いま当然だと見なされるようになっているなら、中井先生をはじめ、同じような痛みを受け、あるいはその子どもたちに向き合ってきた、教育者や医療従事者の尽力によると言えるだろう。
 
子どもたちのおふざけや遊びといじめとの違いを、著者は分析する。そこには「相互性」がない、という指摘をする。また、子どもに限らず人間に備わる「権力欲」というものが背後にあること、従って子ども社会を考えるにしても、「政治学」的な捉え方が必要になる。
 
政治的に人間を奴隷化するために、著者はさしあたり「孤立化」「無力化」「透明化」という段階を措定する。いじめに悩む人は、この言葉を並べただけで、おぞましい気持ちに襲われるかもしれない。私もこれ以上、あからさまにここで受け売りの説明をすることは控える。どうぞ本書か、または先ほど挙げた、小学校で習う漢字にルビを振った『いじめのある世界に生きる君たちへ - いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉』(中央公論新社)をご覧戴きたい。
 
おもに学校なのだろうが、いじめられる子どもにとって「収容所」であるに等しい場所から逃れられない現実は、たとえ大人がこのように理解できたとしても、それだけでなくなるようなものではないだろう。だから著者も、何か参考にでもなれば、という程度の謙遜な言い方で締め括る。だが、もちろん心ある読者は皆分かっている。これはなんとかしなければならない、と。
 
これだけ構造が見えてきていても、何もできないのか。大人はいったい何をしているのか。そう、大人社会が、これまた「いじめ」の構造の中にあるのだ。人間は、「いじめ」をする側にとっては、楽しくて仕方がないのである。また、そのことを正当化する知恵にも長けており、それどころかそれを世の「正義」にまで仕立て上げるのである。
 
こうして考えてくると、国際関係における争いにも、これは拡がる捉え方ではないか、ともふと思う。
 
その他、短い文章が多数あるが、最後のロールシャッハ・カードについてのものは、相当に専門的で、50頁にわたる力作であった。多少は分かるが、きわめて表面的なところしか理解できない。お手上げである。ただ、中程にある「記憶について」は、漢字など世界の文字についての興味深い指摘があって、面白かった。中井氏自身、本の背表紙が見えると、その中身が「五月蠅い」というような、特殊な能力をお持ちのようだったから、記憶について、あるいはものの感じ方について、私のような凡人からすると、不思議すぎることも多々あって、それがまた、失礼な言い方かもしれないが、面白いのであるのかもしれない。
 
なお、阪神淡路大震災について、精神科医としてできることの重要なポイントに、「あなたは孤立していない」ことを実感させることが挙げられていた。「いじめ」はそれの逆を行くのである。が、同時に私の身の回りに、孤立している人がいないか、それはよくよく目を見張っている必要があるのだ、ということを戒められた。もちろん、私自身がその人を孤立化させているという論外なことも、やらかしているのではないか、という眼差しが第一に必要である。

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