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夫婦の約束事

「なんでこんなもの買ったの?」という言葉は、わが家では浴びない。妻がよく耐えている。決して裕福でもないし余裕もないのだが、切羽詰まった家計である訳でもないので、ちょっとした買い物が命取りになるということではない恵まれた状態であることもあるかもしれないが、相手の選択を即刻非難しないということにしているのだ。
 
それは、相手の価値観を認めるということでもある。ものを買うには、一定の価値を認めてそれに見合う代価を支払うという営みが隠れている。つまり、それだけの額を支払ってでも手に入れたい価値を見出していたという、その相手の気持ちを一蹴するかのように、「なんで……」とは言わないことにしているということなのだろう。
 
もちろん、それが家計を脅かすものであることはないという前提である。私も万の位のつくものを、相談もなしに勝手に買うことはない。千円とか三千円とかのレベルであるから、可愛いものだと言われそうである。
 
今のは不文律だが、結婚にあたり、別のひとつの約束を交わしていた。それは「言った・言わないの争いはしない」ということである。
 
自分本位の記憶に基づいて争うと、収拾がつかないからだ。2人で争うとき、第三者が証拠立てることがなければ、自分の主張だけが自分にとり絶対のものとなる。これが互いに成立するときに、この争いが起こることになるのだ。だから、「言った・言わないの争いはしない」というルールだけは互いに従う原理だということにしておいたのである。
 
聖書は契約の書である。また、その契約を巡って、人間が神に対して罪を重ねてきた歴史を突きつけてくる書である。そしてそれは、信頼の書でもある。契約は互いの信頼の下に成り立つものなのだ。
 
結婚もひとつの契約である。だが、そこには愛という、自らを膨らせてしまわない原理が貫かれている(はずである)。そこには信頼がある。あるからこそ、成り立っている。自分の論理だけを相手に説得するということでは、信頼は成り立たない。家庭の中で、つまり自分の居場所そのものの中で、それを経験し、磨かれていくというところに、2人でいることのひとつの良さがある。不文律にせよ交わした契約にせよ、互いの信頼があればこそ、赦しもあり、赦しがあれはれこそ、信頼もある。
 
私は基本的にだいぶ妻に甘えているが、やっぱり本をまた捨てる時期が近づいているようだ。コロナ禍の始まりのころ、だいぶ捨てたけれども、また溜まってきたことを、妻はよく我慢してくれているのだから。

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