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『神学でこんなにわかる「村上春樹」』(佐藤優・新潮社)

書館でこの本を見つけて、これは読むしかない、とすぐに借りた。佐藤優の本は沢山読んだとは言えないが、その人の経歴やよく言っていることについては、それなりに知るところがある。また、村上春樹は、その多くの作品を読んでいる。このタッグは読まねばならない。そう思って家に帰って開いたら、本書は『騎士団長殺し』のコメンタリーだった。
 
私はそれをまだ読んでいなかった。読む機会がないわけではなかった。読みたがった息子のために購入さえしたのだ。文庫でなく、単行本のときである。しかしいまひとつ関心が湧かず放置したままに忘れてしまい、その後『街とその不確かな壁』が発売された後、少し経ってではあるが、その本を読んでいた。難しい展開だった。
 
すると、よいこともある。本書には、この『街とその不確かな壁』についての解説もあったのだ。「あとがきにかえて」というところで、この新たな小説について著者が記した書評の一部とそのアレンジしたものが、約20頁にわたり掲載されていたのだ。それは読ませて戴いた。だが、その17倍もある分量の本編は、読みようがない。泣く泣く一度返却することになった。
 
その後、私は奮然と『騎士団長殺し』を読んだ。息子から借りて読んだ。すると、実に面白かった。長編も長編であるのに、ひとときも厭きさせず、私の心を捕らえていた。これなら、隅々まで分かるから、いまこそ本書を読む時だ、と図書館に行った。すると貸出中だった。それを待つこと2週間、予約をしていた私の許に電話が入った。
 
こうした経緯で、再び本書を手にした私は、今度は最初から堂々と読むことができたのであった。
 
前置きが長いが、これも小説のコメンタリーであるから、内容を記すことは控えたいためである。本書のスタイルは、取り上げたい点を述べるために、数行にわたって『騎士団長殺し』の一部を引用する。そして、それの意味を解説したり、引用と引用との間の概要を述べてゆくのである。これがずっと最後まで保たれてある。
 
さて、著者は同志社大学の神学部を出ている。信仰もだが、聖書についての知識が膨大であることは、並の知識人と比べても強い利点をもつ。欧米の作品について、その背景を読み取ることができるからである。村上春樹自身は、この信仰をもつものではない。だが、欧米の思想を深く調べているし、特に戦争に関する事柄について、心中に潜む憤りというものを、文学の形式で表現するということを、以前からずっと行っている。となると、キリスト教の考え方についても弁えているところが多く、実際本書のコメンタリーで暴かれるそのメタファーは、確かに聖書を意識してのものであったと言わざるをえないようなことが多々見つかるのである。こういうことだから、欧米で村上春樹が認められているのであるに違いないと私は思う。
 
具体例はここでは挙げない。『騎士団長殺し』は前巻を「顕れるイデア編」、後巻を「遷ろうメタファー編」と題しているが、確かに物語において、イデアの顕れた騎士団長と、メタファーとしての顔ながとが、物語の展開の鍵を握っている。それらは、思想的に、あるいは文学的に、重要な存在である。しかし、それらの背後に、この物語には悪がちらついているという。その悪に克つために必要なものは何か。著者の見立てによると、それは「信じる」ということであるという。
 
相変わらず名前の不明な主人公の「私」が、読者の眼差しを奪い取るようにして物語の世界を記述し続けるけれども、「私」は妙に疑うようなことをしていない。妻に離婚を切り出されても、受け容れる。そして自分の方からその家を出て行く。親友の父親の家を借り受けるが、そこで見つけた「騎士団長殺し」の絵について、謎だと悩みはするが、そこから起こる様々な出来事や、出会う人について、決して騙したり騙されたりするような関係をつくろうとは考えない。
 
著者は、時折聖書の記事を紹介する。そのことと、村上春樹の記述とがパラレルになると見るときである。何か関係があると目されるときである。私のような読者にとっては、これがたまらなく面白い。聖書は人間のドラマを描いていると思うから、村上作品にだって当然アプローチできるであろう。しかし、村上がこうして隠れたメタファーを持ち出していたのか、というような、胸を梳くような解説が時折あって、愉快であった。
 
ただ、村上春樹自身が、このコメンタリーをどう見たのか、それは特に一般に挙がってくるようなことはない。本人も挙げはしないだろう。しかし、本人が本書を知らないということはないだろうから、きっと目を通していると思う。そのとき、村上春樹はどう思っただろう、ということを、ちらりと想像してみる。当たっている、と思うところもあるだろう。見当違いだ、という目で見るところも、たぶんあるだろう。あるいはまた、そんな意味があるとは自分でも気づかなかった、と思う部分もあるかもしれない。
 
そんな暇はないだろうが、そういうところを村上春樹自身が語るものはないのだろうか、と思う。もしかすると、すでにどこかで発言しているかもしれないし、書いたものがあるかもしれない。ご存じの方がいたら、ぜひ教えて戴きたいと願う。
 
それにしても、佐藤優氏の、この小説に対する読み込み方は、驚異的である。哲学や神学を学ぶということは、こうしたメリットもあるわけだ。さらに、著者自身、この小説に登場する免色という男と同様、入牢生活を経験している。それだから逆に、村上春樹が、囚人生活をする者の心理をよく描いている、と驚いていた。人の心理を、様々な立場に次々に乗換えて綴る作家たるもの、ただの想像でそれができやしないだろう。しかし、豊かな感受性と想像力がなければ、やはりそうしたものは書けないに違いない。
 
そこで推薦であるが、『騎士団長殺し』を読んで面白いと思ったクリスチャンは、ぜひ本書を手に取って戴きたい。聖書の記事の、行間や奥深いところを、どのように読んだらよいのか、それを学ぶヒントがあちこちにあるような気がするからである。聖書そのものについても、コメンタリーがクリスチャンには求められている。それが、聖書を読む、ということなのである。そのきっかけになる資格を、本書は十分に有っている。

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