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宗教についてもっと考えて戴けたら

捜査中の事件について、憶測をするつもりはないし、ましてそれを無責任に公言して、ひとを惑わすようなことはしたくない。事実と感想とを述べるという点をご理解戴きたい。
 
どうやら、若い世代のキリスト者や牧師などの中には、統一協会なるものをご存じない人も多いらしい。再臨のキリストという信仰による教祖により、強力な組織力をもったグループである。あれほどマスコミが騒いだ「合同結婚式」も、何のことか知らないのは世代的に仕方ないかもしれない。マスコミはまた、「霊感商法」というキーワードでも、この団体に近づこうとした。
 
さすがに古い時代のことは私も知らないが、「街角アンケート」と「ビデオセンター」、公園で「杯をどうぞ」との誘い、どう考えても収支決算が合わない、福祉活動としてのキーホルダー販売など、私が実際に触れたケースは多々ある。『原理講論』を軸にして、大学に原理研究会を置き、時折厳重警戒の中で集会をしていたことや、その学生の一人が窓から廊下に入ってきて議論をふっかけてきたことなどは、今はないのかもしれないが、事実あったことではある。
 
マスコミは、及び腰で、この団体名を明らかにして報道してこなかったが、お上の発表を受けると、とたんに合唱し始めた。そして、宗教の怖さをセンセーショナルに植え付ける効果を与えようとしているかのようにさえ見える。今回こうしてその名前が出てくるまでは、事件は「言論」「民主主義」「テロ」というような、尤もらしい声が正義の名のもとに飛び交っていたが、ようやくそれらが的外れであることに、選挙実施後に明らかになってきたことだろう。となれば、かのように叫んでいた人は、いずれ、大きな過ちを犯したことを痛感させられることとなるだろう、と思われる。
 
代わりに浮かび上がってきたのは、「宗教」というキーワードである。早速、キリスト教内部から、その言い方は教会を誤解させる、と憤る声も現れた。宗教は怖い、という観念を植え付けるに十分な条件が整っているのは、確かである。
 
統一協会はまだ活動をしていたのか、との呟きもあった。ということは、統一協会により痛み苦しんでいる人がいまなおいるということに、無関心であったということを図らずも暴露してしまうこととなった。
 
私が最初に足を踏み入れた教会は、いわゆる「異端」とされてはいないが、限りなく「異端」に近い、他の教会にはない独特の教義をもっていた。そこをやっとのことで飛び出した形にはなったが、それをどのように通常の福音へと換えていくかについては、そう簡単にできるものではなかった。
 
統一協会から救い出す、という名目で命を張っていた教会や牧師なども、かつていた。子を返してくれ、という親の頼みを叶えて、子を連れ戻したら、その子がまだ精神的に統一協会の教えのままであったために、逆に協会側から、自由意志を無視した監禁であり誘拐である、と訴えられるようなこともあった。それでも、いまなお、この問題について闘い続けている弁護士たちがいる。今回、懐かしい名前をまた聞く機会もあった。
 
信じ込んだことは、容易には変えられない。しかもそれが神の教えであり、真理であると言われているならば、守り抜くのが信仰であるために、よけいに自分の最初の教えにしがみつくようになるのは必定である。それでもそこから引き離そうとする闘いなのである。支援者も苦しいが、当人の苦しみはなおさらである。その痛みを、完全に、ではないけれど、私と妻は感じる心をもっている。
 
最初から、普通の福音的教会に導かれ、キリスト教といえばそれしか知らない方々には、分からないであろう。だから、統一協会に限らず、キリスト教のひとつのような形を取りながら、ある意味で真のキリスト教だという態度でいながら、いわゆる正統的キリスト教とは異質な部分の多すぎるグループから、まず信仰生活を始めた人が、逃れて多数派のキリスト教へと変わることのメンタルな部分については、関心も湧かないのだろう。
 
キリスト教界の中では、これは自分たちとは関係がない、と安心している向きもあるようだ。だが、外から見れば、聖書の教えということで、何の区別ももたれないだろう。いくら、自分たちは違う、などと言ったところで、ヒョウとジャガーを見分ける目をもつひとは、ほんの一握りに過ぎないのだ。
 
2012年の教祖の死の後、確かに統一協会とその関連団体は、かつてとは違う面をもつようになった。神としての教祖がいないために、それまでのやり方を続けることが、確かにできなくなった面があるのだろう。いまは、名前も替え、「平和」と「家庭」により象徴されることについてなど、右派的思想を強調するものとなっている。会見をよくぞ開いた、とも思うが、よく聞くと、言葉の背後に含みがあることが読みとれる。宗教に疎い記者たちでは、気がつかないだろうけれども、専門家は、その虚飾を指摘している。
 
いまもまた、「統一協会とは関係がありません」の言葉を、案内書の最後に付す教会はある。社会問題となった「キリスト教」は、日本では、ここと、エホバの証人が代表格であろうか。小さな集団としては、女性を集めてクラブを経営する「イエスの方舟」もあったが、これは、さらにご存じない方が多くなったのではないか、と思われる。聖書研究会が発展したもので、居場所のない人々がそこに従ったが、家族が捜索願を出したことから、世間が大々的な反対キャンペーンを行う。やがて、世間がやっかむほど悪いことをしているのではないことが明らかになると、騒ぎは収まった。いまもこのクラブを、私は電車の窓からよく見ている。そのたびに、痛みを味わった方々は元気にしているのだろうか、と祈るような思いになる。
 
痛みを覚える人がいて、その人に手を差し伸べようとする人がいて、それが傍から見ると誤解もされることがある。他方、中には非常に経済的な利益をひとつの目的とし、さらにその金を用いて壮大な夢を実現させようとするタイプの「宗教」もある。今回挙げた名前だけに限らず、世間を騒がせた宗教団体はあるし、金の力で教育や政治も恣にしようと目論んでいるところもある。オウム事件以来、新規の宗教法人取得など厳しくなったことが多いが、他方で、信教の自由という問題もある故、迂闊に活動内容に干渉することができないという事情もある。今回も、報道機関が右へ倣えとなっていたことは、記憶に留めたい。時代が一気に変わり得ることの、ひとつの指標となったはずである。
 
日本の公教育には、宗教教育がない。これはまずいと私は思う。宗教とはどういうことなのか、教えられないから、奇妙な感覚で宗教を見てしまうことにもなるし、そこに誘い込まれてしまうことにもなる。無神論だと言うことが知識人のような顔である印象を与えていることがあるものの、内実そうではない、といったことも多々あるようにすら見受けられる。要するに、宗教とはどういうことかを、知らないままに大人になっていくようにさせられているのである。
 
素朴な信仰心のようなものが染みついていながら、宗教とは何かについて思索した経験がない。これがどんなに危険なことか、あれほどの事件があったのに、気づこうともしないのは、どうかしている。それほどに、政治家たちも、宗教というものについて考えることができないでいるのである。統一協会をはじめ、多くの不思議な宗教団体と、多くの閣僚や政治家が、深いつながりをもっているのも、そういう背景があるからなのかもしれない。
 
統一協会という名前が出て来たことで、これを機会に、「宗教」について真摯にお考えになる方が増えてくださればいいと願う。中には、宗教二世ということで、親に宗教的虐待を受けてきた、との声が飛び交うのも見かける。キリスト教を信仰する親は、そのように働きやすいことは、教会というところを知る者として、理解できる。映画「星の子」についてご紹介したことがあるが、それは正にそういうことである。当人は善意のつもりなのだが、子のほうでは嫌な思いをしている、ということも想定していなければならないのだ。もちろん、私もその当事者である。
 
あまりに被害者意識をもったり、加害者意識をもったりするという、感情的な方向に走らないほうが、きっと実りは大きいだろう。宗教とは何か。これを機会に「思索」するのは如何だろう。いまは流行らなくなったかもしれないが、「ほんとうの自分」を探すことにも、非常に近い道ではないか、というふうにも思う。

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