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依存と信仰について

新教出版社『福音と世界』誌は、いつも新たなチャレンジを投げかけてくれる。お決まりの良い子でいるキリスト教雑誌もいい。心が洗われる。本誌は、心が洗われる効果は殆どない。だが、常に新たな視点をもたらしてくれる。知らないことを教えてくれる人が多いというのは、私にとり良い雑誌である。もちろん、それらは真摯な姿勢であり、多面的な調査や研究に基づいた記述であり、信頼のおけるもの、という理解に基づいての意見である。
 
さて、2024年6月号の特集は「依存と信仰」であった。今回、その中で目に留った二つの論文について、触れてみようと思う。
 
まず「人間の本質的な在り方としての依存」(杉岡良彦)である。副題が「医学における依存の問題と自立神話からの解放」と付いている。京都府立医科大学の准教授による執筆だというので目に留った点が大きい。
 
精神医学の観点から、「依存」について教えてくれた。何らかの物質を使用したい欲望をコントロールしづらくなる状態がそれであるという。そしてその治療は簡単ではない。今回は、雑誌のテーマから、宗教的背景をもつ精神療法を取り上げる。
 
それには、日本で開発されたものが二つ知られている。森田療法が有名であるが、ここでは内観療法を説明する。それは、浄土真宗の「身調べ」という精神修養法を「脱宗教化」して、吉本伊信(いしん)によって形作られたということだ。自身がひとに負うていることに「気づく」ことが肝要である。
 
V.フランクルによる内観療法もある。「実存的空虚」即ち「生きる意味の喪失」をどうすれば脱することができるか。『夜と霧』で世界を驚かせたフランクルは、「すべての人間には生きる意味がある」と考えている。私たちは、「人生」の側から「生きる意味」を問われている、という言葉がよく知られている。
 
この問いかけにレスポンスを返すことが、人間のレスポンシビリティ、即ち「責任」だ、とフランクルは捉えている。そこから「逃避」が、依存の背景に潜んでいる、と理解できるため、この問いに「気づく」ことから、解決の道が始まるという。
 
この後、議論は「自立」という問題に移ってゆき、「自立神話」をなんとかしようという意気込みが伝わってくる。「自分で考える」ことは本当に望ましいのだろうか。むしろ、「依存」の中に、人間の基本的な在り方を見出すことも必要なのではないだろうか。つまり、私たちは「生かされている」という意味では、根本的に「依存」している訳で、これに「気づく」ことが肝要ではないのか。筆者は「健全な依存がもたらす安心感」というものの大切さを告げている。
 
ここまでいくつか「気づく」ということ、しばしば「気づき」と称されることを鍵としながら、「苦悩」にも意味を見出し、「勇気」が得られるようでありたいものだ。だから、「信じる」ことから「ゆだねる」決断を伴う「信仰」ということを軸に考えるとよいのではないか。逆説的かもしれないが、「依存」するが故に、「自立」という結果がもたらされる、と考えてよいのではないだろうか。
 
筆者のまとめにはなっていない。私の色つけを加えたので、筆者自身への批判はご遠慮願いたい。ただ、しきりに「気づき」という言葉、そして「勇気」について触れていた点が印象的だった。注釈にも挙げているが、ティリッヒの『生きる勇気』は私も読んだ。西欧世界で、この「勇気」という概念は、それ自体としては殆ど取り上げられることはないが、私はこの概念の把握に、西欧思想や神学を考えるにあたり、大きな意味があるものと睨んでいる。私にはその才覚はないが、プラトンなどの提言が、もしかすると暗黙の前提になっているのかもしれない。聖書の中にも、限られた意味ではあるが、もちろん「勇気」の語はある。だが、誰もが周知の概念としてその語を使っているように見える。それでよいとは思えないのだ。
 
もう一つ、「カルトとの関わりのなかの依存」(齋藤篤)という論文が気になった。牧師である。今度はその論点を辿るようなことはしないことをお断りしておく。「カルト問題対策」に関わった経験が、ここに活かされているものと理解している。
 
それは、公開されているので明かしてもよいかと思うが、エホバの証人に属していたが故であるらしい。いま、それに関する本が、キリスト教世界では注目されている。私もまた、エホバの証人ではないが、最初に足を踏み入れたところが、普通ではなかった。世の中には、最初に福音的な教会から信仰生活が始まり、それが当たり前だという人が多いだろう。中には、それだからこそ別の可能性に気づいたときに、怨念にも似た反発を福音主義に感じ、刃を向けることが生涯続く、というような人もいるが、多角的な見方ができず両極端に走らねばならなかった点を、気の毒に思う。最初におかしなところを経験しているから、聖書についていろいろな解釈があることや、だからこそいわば健全な読み方というのがどういうものであるか、経験することもできた。もちろん憶測だが、この筆者も、キリスト教を知る基準というものを、苦しみながらも与えられたところから、非常に落ち着いた観点で捉えるような見方ができているのではないか、と私は感じた。
 
この筆者もまた、「健全な依存」という見方をここで提言している。「依存」が悪いのではないのだ。その神学的に契機としては、シュライエルマハーの「絶対依存的な感情」というところから紹介する。本人は「余談」だと言いながらも、日本で神仏に向かう姿を「依存」とは呼ばず「帰依」と称したところに、ひとつのよい知恵を見出しているのは、なるほどと教えられた。
 
この「依存」は、シュライエルマハーの見方にも依るのかどうか分からないが、「感情」の向く先や、そこで築かれる関係性によって、健全にも不健全にもなることだろう。不健全の代表が「カルト」である。「人民寺院事件」が世界的な議論を起こしていく点を、改めて押さえている。近年はオウム真理教事件や統一協会、その他新興の宗教団体のトラブルばかりが日本で目につくために、案外意識されていないかもしれないが、半世紀ほど前の「人民寺院事件」は悲惨だった。千人近くの人命が失われたのだ。
 
カルト宗教は、犯罪を起こしたかどうか、で決まるものではない。筆者が用いる「カルトの定義」は、「ゆがんだ支配構造」にあるという。この提言が大きい。広辞苑から説明すれば、それは「ある者が自分の意思・命令で他の人の思考・行動に規定・束縛を加えること」と言ってもよいだろう、と言う。そして「不健全な依存関係はゆがんだ支配構造を形成し、それがカルトという現象を生む」と考えられることを伝える。
 
この筆者がきちんと物事を見ていることは、「教会のカルト化」という問題をはっきりと打ち出しているところに現れている。教理的な正統性をとなえていたとしても、「ゆがんだ支配」をもっていたら、それは気づきにくいが大問題なのである。それは不健全な「期待」がそれを引き起こし、その根柢に「甘え」がある、と指摘するが、これを説くにはたぶん誌面が少なすぎたと思われる。改めてその問題は深めて戴きたいと思った。
 
最後に筆者が指摘するには、「カルト的な構造は、神を無意識的に排除した人間と人間とのあいだに起こるもの」である。これは私はしみじみ分かる。実に巧妙に、それははびこる。正に「無意識的」なのである。

そんなことはするはずがない、私の教会は「多様性」をモットーとしていますから。こう豪語する教会もあった。だが、そうした教会のリーダーは、あれはいけない・これはいけない、と信徒に指図をしていた。自分が思うように動かない場合は、罵声を浴びせもした。その挙句、自分がひとの一生に一度という機会を台無しにしたときには、見事に笑い飛ばすようなこともした。また、そうした空気に満ちた教会は、その尊重する「多様性」のあまり、心ある人を追い払い、箸にも棒にもかからない者を人形のように据えたのだが、そういうことが平気でなされることが、「無意識的」「無自覚的」ということの意味を表しているわけである。
 
筆者は、最後の最後に、自分自身の中にある「甘え」を意識している。原稿の締め切りを守れなかったことについてだ。本来こうした言い訳は、論文に載せるはずもないことなのだが、これには意味があった。この自身を捉える眼差しこそ、カルト宗教というものを肌で知り、そこから聖書の神に改めて見出された自分という経験を有することから備わった知恵であるからである。これがある場合、「無意識的」に操られる危険性から、かなり守られるものであることを、私は実感しているのである。「どうしてこんなことに気づかないのだろうか」と、悲しく見える景色が多い昨今、筆者のこの蛇足のような末尾は、私にとって一筋の光であった。

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