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『「戦火のなかの子どもたち」物語』(松本猛著・いわさきちひろ絵・岩崎書店)

これは絵本「戦火のなかの子どもたち」にまつわるエピソードを綴った本である。その絵本についても、私はこのような場所でご紹介しようかと考えていたが、この「物語」に触れることで、絵本のことはお知らせできると考え、この場で一緒にお伝えすることにした。
 
絵本のほうは、もちろん、いわさきちひろ作である。同じ岩崎書店から刊行されており、1973年9月に第一刷発行となっている。大判の絵本であり、1989年の第29刷において、価格は1165円+税となっている。赤いシクラメンの花の色だけは、本書の扉のところでもカラー版として載せてあるのはありがたい。ここだけは、紅色から朱色のグラデーションから成る、色彩が見られるのである。ほかは、表紙にかすかに色が見えるほかは、セピアと墨色との混ざったような色調で一貫している。
 
大人のための絵本でもあったらしい。子どもには、「分からない」という声も聞かれたという。戦争のときの子どもたちの風景が、断片的に現れる。ストーリー性はないと言ってよい。流れに意味を感じることは、まずできないだろうと思う。それでいて、作者はこの順番や内容について、十分に考慮して選んでいるのだ。
 
本書には、その制作過程も明らかにされている。ラフスケッチによる「ダミー」の1と2、それから校正刷りがあって、完成した絵本というように、四段階の主な変化があったという。本書は、それを縦に並べて比較するという、私もこれまでには見たことのない構成を以て、始まっている。
 
すると、時折、校正刷りにもなかったものが、完成した絵本に現れているものがある。これについても、本書は解説を加えている。実に本の半分以上が、これの解説に費やされているのである。校正刷りの後でようやく描き上げた絵もあるという。そこまでいきながら、どうしても追加しなければならない、という思いに突き動かされたのだ。
 
本作品がつくられたのは、いわさきちひろが没する1年前であった。十二指腸潰瘍を患い、苦痛もあったであろうに、1972年にグループ展で出品された三つの作品を基に、そこから世界が拡がってゆき、1年半後に絵本が完成している。これは、いわさきちひろの、ほぼ最後の時期の作品にあたる。
 
このあたりの事情が、「1 制作過程」に記されているが、どういうわけか10頁では、1993年というふうに書かれ、20年ずれた、過った西暦年が書かれている。私の見たのが第一刷であったから、その後これは訂正されているのだろうか。
 
とにかく事細かく、絵本の成立過程が記録されている。これほど細かな絵本の裏側の提示は、見たことがない。どういう言葉、どういう詩があって、また修正されて、本作になったのか、手に取るように分かる。本書の半分をこの解説が占める、と先に紹介したが、ほんとうに見開き毎に、その絵の意味や、決定するまでの揺れ動きなども全部明らかにされている。中には、絵本としては用いられなかったが、校正刷りにはあったものについても、それが描かれて背景、また削られた理由などか、たっぷりと記されている。
 
やはり中でも目を惹いたのが、絵本p12-13の、「焔のなかの母と子」であろう。ダミーにも校正刷りにも全くなかったものが、突如絵本に載っているのである。絵としては最後に描かれたものであるという。ここには、他の頁には見られない。母親の姿が描かれている。どうしても、この絵を入れなければ、絵本は完成しない、という強い思い入れが生まれたのだ。そして、担当編集者は絵本関係のときに、こう話していたという。「この母親像がどうしてもちひろさんに見えてしょうがない」と。
 
この絵本は、ある教会の礼拝説教で触れられたものである。熱く語られた本であったため、私はすぐに図書館に走った。また、手にする前に絵本についてウェブサイトで調べていたら、絵本についてひとつの画像が目に入った。私はその絵を用いて、説教について語る場をこしらえることにした。そう、その絵が、この「焔のなかの母と子」だったのだ。私は、絵本の最後のピース、そしてこれがなければこの絵本は完成しなかった、そういう一枚に、心が捕らえられていたのだ。
 
戦争と子どもについては、いわさきちひろが1918年に生まれたことで、見てきたこと、体験してきたことがベースになっている。自身は戦後31歳にして結婚し、翌年長男を出産するが、その後、ベトナム戦争を目撃する。最初は地域紛争の様相を呈していたが、10年後にアメリカが大きく介入し、事態が変わる。そこから10年、アメリカが退くまで、アメリカの犠牲もさることながら、枯れ葉剤の投入により、ベトナムで弱い子ども、またその後生まれてくる子どもたちにも、深刻な影響があった。ちひろは、この戦争の終結を見ること無く、この世を去ったことになる。
 
本書の後半では、このベトナム戦争についても詳しく語り、それを日本がどのように捉え、文化や思想が政治的にどう動いていたか、も教えてくれる。短い中でこれほど分かりやすくそのあたりのことを述べる文章も珍しい。さらに、この事態をいわさきちひろがどう見ていたか、を細かくレポートする。ちひろの夫善明氏は、共産党員であり、衆議院議員にも当選している。政治の実情も、ちひろにはよく伝わっていたことだろう。そういった家庭内の様子も描きながら、ちひろの当時の作品についても、その背景が豊かに語られる。戦争に対する思いとしては、もちろんベトナム戦争のことだけがあるのではない。かつての太平洋戦争のときの自身の体験も入っている。それでも、ちひろは子どもを描いた。
 
子どもには未来がある。子どもは、未来そのものである。辛い体験をもつ子どもたちが、それを乗り越えていけるように。それは口で言うほど簡単なことではない。だが、戦争の体験者が、時とともにいなくなってゆく。それを語り伝えるのは、もはや体験者だけに頼るわけにはゆかない。著者は、「あとがき」の中で、そのような思いをぶつけている。
 
本書の著者、松本猛氏は、いわさきちひろの長男なのである。

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