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本を買うのを減らすには

本が高い。否、世間では食料品をはじめとして、物価が高騰している。給料は変わらないか、むしろ減るばかりであるため、家系は楽ではない。それでも、食べられる分だけが備えられていることはありがたい。
 
そんなときに、本などを買っている場合ではない。確かにそうだ。本を食べて生きているような人間にとっては、買わないのがだめなのではなくて、読まないのがだめなのだ。
 
積ん読というものが非難されるべきものではない、という空気が最近強まっている。そこに、読まれたがっている本が待っていること、まるでアニミズムのようだが、本との関係は、そこに共に暮らすことによって強まってゆくことがある、というのは確かなようだ。
 
もちろん、逆に疎遠になることもある。当初、読みたいと思って買ったものだったが、読まずにいると、次第に関心が薄れることがある、というわけだ。それも事実だ。だが、再びまた「読みたい」と思えるようになることも、多々ある。そもそも自分が興味をもって読みたいと感じたのだから、同じ自分が、また読みたいと思うようになることは、当然十分あり得るのである。
 
そうやって、買ってはみたものの、読まずに置いてあるものを見つめていると、またむらむらと読みたくなってくることがある。それが、きっと読みどきなのだろう。楽しく二度目の出会いをしたとなると、いっそう愛おしく思えるときもある。いや、これは人間相手の心理を言っているわけではない。
 
そのような未読の本が、そこにある。そこから選べば、読むべき本はまだまだある。楽しみにしている。だから、買うのを控えようと思えば、できるのだ。
 
図書館も利用している。図書館に入る本は、私の領域とはずいぶん違うと言えるが、時にとてもよいものが入る。ふと知った本を、図書館にあるかどうか検索してみると、時に見つかることがある。また、2週間に一度は返却のために図書館に通うわけだから、そこで目に留る本もある。面白いと思えるものに出会えることもしばしばである。
 
それでも、買ってしまうことがある。新刊で、非常に心惹かれる場合は、よくよく考えてのことだが、買うこともある。多少衝動的にではあるが、買うことがある。古本でも、目に留ったものは、「あとで買う」に置いているが、これまで何度も、安いものは誰かに見つかって買われてしまう、ということがあった。やはり安いと、誰かが探したときに、パッと買われてしまうのだ。これは実に痛い。実際、今日帰宅してから注文しよう、と思っていたら、その数時間のうちに買われたことが、正直言って数回あった。「どうしようかな」と思うときも、安いと思ったら、いますぐ読む予定がなくても、注文するべきなのだ。
 
が、その思いは、だんだん小さくなってきている。本を捨てなければ、買ってはならない、という掟があるからだ。幾度もいろいろ捨てたが、いまなかなか捨てきれないでいることが多い。また休みができたら、捨てようとは思っている。山と積まれた本のうち、もう読まないし調べもしないし、利用価値もないものはたくさんあるはずなのだ。「天国には持って行けないのですからね」という訓示は、完全に正しい。
 
ところで、昔は古本屋を回って、探していた。よほど欲しいものがあるときには、古本屋の店主に声をかけておくこともあった。それくらい親しく通っていなければならなかったが、当時はそういう文化だった。しかし基本的に、古本屋は、思わぬものと出会う場であった。今は、クリック一つで、全国からどこにその本があるか、がピンポイントで分かる。しかも値段順に並んでくるし、コンディションも、文章にてではあるが、およそ分かる。なんとも便利な時代になったものだ。私は、コンディショニングよりも価格優先であることが多いが、それも選ぶ本によりけりではある。
 
こうした本相手の事情であるが、最近、少し変わってきたことがある。それは、再読である。私は読んだ本の多くについて、書評めいた感想文を書いている。それはずっとウェブサイトに挙げているのだが、今年3000を超えた。だから、新しい文章を書くには、新しい本が必要だった。しかし、一度読んだきりで終わり、というのはあまりにもったいない場合があることに、気づかされたのだ。もちろん、再読した本もまた、いくらもある。が、それはどうしてもという熱意が伴っていたからだ。そうでなくても、ここのところずっと、価値ある本をもう一度読み通そう、と思うようになったのである。
 
感想文を新たに書くことはない。それでも、これは味わうべき本だ、と思ったら読み直すことにしたのである。最初は、よく黄色いマーカーでラインを引いていた。だが二度目となると、赤の細いボールペンで引く、というように工夫した。青のこともある。これで、一度目と二度目とのラインの区別ができる。さらに、フィルム附箋を貼っている。昔は貼っていなかったから、あらたに、歯ブラシ状の附箋が並ぶ。これも楽しみだ。フィルム附箋だとかさばらないので、本の厚みが増すことはない。
 
以前よんだにしても、まるで初めて読んだかのように楽しめることが多い。改めて学ぶことがたくさんある。落としものを拾ったかのように、喜んでいる。昔は、キリスト教のがっつりした内容のハードカバーの本が、たくさんあったものだ。立派な本だ。岩波書店もかつてはハードカバーと函入りというのが当たり前であったし、表紙も完全に無地だった。そうしたキリスト教の堂々とした本も、そういうものだった。古書店からウェブで取り寄せた、貴重な本を、たっぷりと読まねばもったいないのだ。中には、どうしても読みたくて、けっこうな金額を出したものもある。とはいえ私にとっては数千円が最高というものであるから可愛いものなのだが、それをまた読み返すというのは、けっこう満足な気持ちがする。
 
とはいえ、本当に、減らす気持ちはあるのだから、家族にはこの場を借りて、ただ頭を下げるばかりである。

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