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『八色ヨハネ先生』(三宅威仁・文芸社)

同志社大学神学部元教授・八色ヨハネ先生は去る十一月一日に、独り暮らしをしていた大阪市西成区のアパートで死亡しているのが発見された。享年八十八。
 
物語は、この2行から始まる。その扉に「本作はフィクションであり、登場人物や出来事は作者による創作である」と記されているが、「同志社大学神学部」は設定場面であるから、創作ではないということなのだろう。著者は、その同志社大学大学院神学部(研究科)教授である。応募された1878件の中から、「Reライフ文学賞」長編部門最優秀賞に輝いたことで、出版の運びとなった。
 
聖書一色の本である。だが、受賞した。そこには、人生の問題が真摯に語られていたからである。どうしてこの八色ヨハネ先生は孤独に亡くなったのか。それを説き明かすという手法で物語が展開されてゆく。
 
例によって、文学作品はそのネタバレと紹介とをどう区別するかが課題となる。今回は少しばかり踏み込まねばなるまい。
 
語り手が誰であるか。それは三人称であるから、いわば「神の視点」であるかのように振舞っていた。さて、それが最後にどうなるか、それはお楽しみにして戴きたい。実は、ちゃんとさりげなく明かしてあるので、「誰であるか」など愚問だ、と吐き捨てる方もいることだろう。読み方としては、もちろんそれでいい。
 
親がクリスチャンであるため、聖書に因む名を付けようとした。「ヨハネ」という名の人物は聖書にはたくさん登場するが、「洗礼者ヨハネ」から取られた、ということが説明されている。正確には文語訳の如く「約翰」であるが、物語は終始「ヨハネ」で通す。
 
いわゆる「宗教2世」である。素直に育っていくが、やがて聖書に疑問をもち、一度は信仰を離れる。だが、神秘的な体験をして、ほんとうの回心に至る。その辺りの心の気づきや葛藤など、読み応えがある。これは、子をもつクリスチャンの親がぜひ読むとよいと思う。あるいはまた、親でなくても、クリスチャンとして、自分は何をどう信仰しているのか、問い直す機会になるかもしれないし、もしもそのような疑問を他人から寄せられたらどのように対応するとよいのか、を考える機会にもなるのではないかと思う。さすが教授である。研究者でもあり、教育者でもあるのだ。読者に教育をするという目的で書いているとは思えないから、読者が勝手に学べる、ということにしておこう。
 
しかし、物語の本筋はそれではない。「ヨハネ」のことは分かったが、姓の「八色」は珍しい。しかし、聖書をご存じの方は、すぐに気づくはずである。新約聖書に「ヤイロ」という名の人物が、印象的に登場する。マルコ伝とルカ伝に登場する。そして、そのヤイロの体験というものが、この物語の本質を表している。そのために、ここでは明らかにはしないこととする。
 
ヨハネ先生の人生は、その後神学を教授するようになるが、心の内の問題を、語り手は様々に明らかにしてゆく。よくぞそこまで、とは思うが、そこは問うまい。随所にキリスト教の問題や、聖書の内容とその解釈、社会との関係にも触れられ、聖書を現代社会で実践的に捉えるために必要な場面が随所にある。もちろん聖書時代の解説のようなことになっているものもあるし、本書全体が、聖書の学びとなる、と言っても過言ではない。そのためには、聖書を少し読んでいる信徒、という立場が適役かもしれないが、おそらく聖書を知らない人も、さほど違和感なく知ってゆくことができるのだろうと私は思う。そこもまた、教育者であるという著者の才覚であるかもしれない。
 
ヨハネ先生は、特別な情熱によってではなかったが、結婚をする。また、娘を授かる。その娘に対して、学生に語るような言葉や話し方しかできない、という設定がなかなか面白い。娘の名は「久美」となった。その意味も、名づける場面に描かれている。聖書をご存じの方は、すでにいま見当がついてにやりとしているかと思う。この娘は、なかなか才能のある子のように描かれているが、やがてヨハネ先生は、妻と娘と別れることになる。
 
そこからのヨハネ先生の心情の描かれた方は、切ないというのを通り越え、読んでいて苦しくなるほどである。人間が苦難の中でどのような思いに苛まれるか、またどのような生活を送るのか、よくぞここまで描けるものだと驚くばかりである。一つひとつの表現が、きわめてリアルであると感じる。それはまた、そのような心を経験した者、あるいは経験しなくても、私のようにキリストの前に一度死んだ者には、きりきりと心臓に食い込むような思いで読まねばならないものであった。「後書き」に著者が綴っているように、著者自身には、ヨハネ先生に似たような体験はない。そうなると、やはり信仰の上で戦いや苦悩があり、神との出会いの中で克服されたことがあるのではないか、と推察する。
 
ヨハネ先生はその苦しみから抜け出すことができた。否、抜け出したのかどうかは分からない。ただ、生きる道が与えられた。つまりそのとき、神からの介入があったのである。その体験も、ただの空想で設定したとは思えないようなリアルさがある。その体験は、物語の最後にまで響き、悲しいその死ではあったが、どこか爽やかな風を連れてくる。
 
ヨハネ先生が出会った神は、必ずしも、教会でお話しされているような神ではないかもしれない。しかし、それはヨハネ先生の出会いである。それにより、先生が光を覚えたのであれば、それでよい。そしてその神の言葉というものは、聖書神学の一つの新たな可能性を、クリスチャンの読者にもたらすものとなりうるのではないか、とも思う。
 
終わり近くに、ヨハネ先生がこれらの問題を超えて、同志社大学のチャペル・アワーで語った礼拝での「奨励」がまるごと収められている。主日礼拝であるならば「説教」に相当するものを「奨励」と呼ぶ教会がある。読み甲斐がある。「神義論とイエス」と題するそれは、著者自身が同様の機会に語った原稿の内容であるらしい。ということは、著者自身が、このヨハネ先生と同じ体験とは言えないまでも、何かしら同じような霊的な体験をもった、ということではないだろうか。あるいはまた、自身が苦しんだ何かについて光明を与えられたときに、この物語の構想が始まった、あるいはできた、ということなのかもしれない。そこは私の邪推であるから、どうぞ信用なさらないように願いたい。
 
どうしても、このような書を世に伝えるとなると、これは何々神学のことだとか、何々論をテーマとしている、というような説明の仕方をしてしまうのが常であるように思われる。しかし私はそのような言葉にはしない。「神義論」の説教をもってきたから、それがテーマであるかのように見えるかもしれないが、私はそう決める必要はないと考える。このヨハネ先生の身にできるかぎり寄り添って読むとよいのだろう、とは思うが、神の前に連れてこられた一人の人間に、神が共にいる、という点だけは外さずに、読者自身がどこに立ち、何を望んでいるのか、自分の人生とは何なのか、神の前にどう生きるのか、そのような人生そのものを考えるひとつの機会にするならば、しみじみと顔が天を向くのではないか、と想像している。そして、また読み直すと、もっと聖書に近づくようになるのではないか、と思う。
 
仕方がないことだが、物語はどうしても男性の視点や視野が優先されている。この物語を、女性の立場から読むとどう感じるのか、それを聞いてみたい、と私は個人的に思っている。想像することはあるが、男の私が勝手に決めることはできない、と思うからだ。

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