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『使徒信条 光の武具を身に着けて』(平野克己・日本キリスト教団出版局)

私の知識としては定かではないが、使徒信条は、福音書が書かれて百年ほど経ったころに、教会でこうしたものが用いられていたのだと聞く。恐らく、キリストの名を以て我こそイエスの弟子なり、と主張するグループが複数現れたが、それは今の私たちに続く教会とは異質のものであった故に、そうした思想から一線を引くために、信仰のエッセンスを何らかの形で定める必要があったものと思われる。
 
だからそれは、教会の伝統の中の文書であり、聖書ではない。ならば、プロテスタントが掲げる「聖書のみ」というスローガンからは外れるべきものである。しかし、プロテスタント教会の多くの礼拝では、礼拝の中で毎週のように、この「使徒信条」が唱えられている。歴史の中で、信仰の中で揺るぎない道標として、基準となるものが役立ってきたのだろう。「聖書のみ」というのは、ひとつの看板ではあっても、憲法の如き絶対の原則ではないものとすべきであろう。
 
教会でそれが重視され、必要とされてきたからこそ、いまもなおこうして受け継がれて大切にされている。だとすれば、その一つひとつを黙想することには、大きな意味があると理解しなければなるまい。私たちを、使徒信条を通じての、信仰の核心へと導くために、これまでもいろいろな書物が著されてきた。そのうち、コロナ禍の中で変貌を強いられた教会において改めて黙想されたものとして、本書は2022年末に発刊された。
 
日本基督教団の教会の牧師である。日本キリスト教団出版局発行の月刊誌『信徒の友』で2021年度に連載されていたものに手を加えてまとめた本である。分厚いものではなく、文字も比較的少ない。だが、その言葉の奥に、どれほどの祈りと思いが潜んでいるか、読む人に伝わってくる熱さがある。もちろん、すべての読者にそうであるかどうかは分からない。だが、心は文字を通じて伝わるものである。そして、祈りの言葉は、神を通じて垂直に働くものである。
 
使徒信条を12の部分に分けたのは、1年間というサイクルのためであろうと思われるが、その最初は「我は信ず」と最も短い。だが考えてみれば、これが一番の核心であることは間違いない。本当は、第2章の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」から始まるべきであるのだが、最初の章は「我は信ず」なのであった。それは、伝統的に唱えられたラテン語において、最初の語が「クレド」、即ち「私は信じる」から使徒信条が始まるからである。新約聖書の山上の説教において、「幸いなり」から原文が始まるのと同様である。
 
その章は、つまりこの本は、ひとりの人のエピソードから始まる。「信じる」側に立つことを、命懸けで教えてくれた人の話である。それは、著者自身が語る礼拝説教の中でも、ある日取り上げられ、さらに本に書かれていない話も語られていた。この世界で「私」がどれほど大きく膨れ上がっているか、だから世界が殺し合うような状態になっているか、それを知らなければならない。それも、自ら神の側にいると勝手に宣言して、我こそは正義だと吠えている。大国の奢りともいえる戦争も、もちろんそうである。しかし、これは教会組織にもありうることであるし、何よりも個人としての「私」がたちまちそういう姿をとっている可能性を、常に自ら見張っているのでなければならないことである。
 
だからそこで、悪魔についてのフレーズが、使徒信条の原版のような、洗礼式で交わされる条文のの中にはあった、ということを指摘する。ルターにも遺されていたそのような考え方が、今失われてしまったことを、著者は惜しむ。もしかするとなくても済ませられるようなこの第1章が、なぜ設けられたか、その意義がそこにあるように思われる。だから、この最初の「我は信ず」を、ぜひともゆっくり味わってお読み戴きたい。そこを胸に刻み込んでからこそ、その先の説き明かしが生きてくる、と言っても過言ではないと思う。
 
だから私は、全体を十日余りでじっくりと読むことにした。上辺だけを、ああそうだね、と流して読むことは、厳に慎まなければならない。月刊誌には、その一つひとつを知るのに一ヶ月間を置かなければならなかった。それくらいでもよいほどだ。
 
各章の終わりには、「話し合いのために」という「実践問題」が掲げられている。グループで話し合うとよい課題が挙げられているのと共に、必ず「あなたはどうですか」と問いかける問題が並べられている。時に聖書箇所が紹介され、そこを読んで「あなたは」どう思うか、と問う。一般的な生活の中で「あなたは」どうしているか、「あなたの」心に何が起こっているか、問うのである。
 
これは、まことに聖書に相対する姿勢そのものである。これを含まない説教というものはありえない、とすら私は思う。説教者としての著者自身が、常に聖書に対してこのように神から突きつけられる思いで向き合っているからこそ、それをそのままこうして読者に問いかけているのであるに違いない。
 
だから「今、あなたも私も」と著者は語ることを以て、最終章を飾る。そこではしきりに「今」「今」と畳みかけてくる。そこでは「あなた」と幾度も呼びかけ、それから「私たち」と叙述する。この「私たち」という言葉は、呼びかけられた「あなた」を含めている先取りの信仰により記されていると感じるが、さて、ここまでキリスト教の本質をたっぷりと読んできた読者は、その「私たち」の中に、自分の居場所を見つけられたであろうか。できるならば、すべての読者がそうであることを、祈るばかりである。

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