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『音楽史17の視座』(田村和紀夫・鳴海史生・音楽之友社)

17の視座というのは章の構成のことをいうが、「音楽」という共通テーマに支えられつつ、様々な角度からの議論が並んでいる。「音楽と思想・芸術・社会を解く」という文字がタイトルに載っているが、これの重みは、実際読んでみると、より感じることになるだろう。
 
著者二人は、ベテランの「国立音楽大学楽理学科卒業」という共通項をもつ。美学や西洋音楽史を営み、それそれ持ち味は違うが、同じ視点で音楽について考察しようとしている。
 
もうひとつのサブタイトルとして「古代ギリシャから小室哲哉まで」とあるのは、人目を惹くための誘い文句ではあるだろうが、本編の多くはクラシックに傾いている。西洋音楽史が、やはり主眼なのである。ただ、それを音楽としてのみ歴史を辿るような趣旨ではない。思想との関連がきちんと押さえられているところが、特筆すべきである。専門が西洋音楽なので、その意味での制限はあるものだが、思想にしても当然その道に絞った形で展開するため、ひとつのまとまった理解を提供してくれていると言える。文化としての音楽をすべて網羅するわけではないが、十分楽しめる。
 
哲学史を重ねてゆくためには、まずは「ムーシケー」というギリシャ語から入らなければなるまい。もちろん神話の世界である。ミュージックの原典ともいえるその言葉が、その後のヨーロッパに受け継がれてゆくことになる。
 
本書は単に歴史を辿るのが目的ではない。第一部では「音楽と思想」と題が付けられるが、サブタイトルが興味深い。「わたし」探しの歴史の旅、というのだ。時代はいきなりルネサンスに始まる。近代の芽生えである。それは「わたし」を意識した時代の始まりである。近代思想は、この「わたし」という視点を人間が得て、そこから見えるもの、捜査できるもの、というようにして客観なる自然を利用し始めた。それがバロック時代になると、いよいよ「わたし」が世界の中心に立つことになる。「感情表出のための音楽」が求められてきた。これが、音楽の思想やつくられる音楽に深い関わりをもつようになる。それが「古典派」と呼ばれる時代になるとき、「人格の表現としての音楽」として、カント哲学がバックボーンとなっている様子が説明されることとなる。さらにロマン派の時代へ変わったのは、たんに音楽の趣味が変化した、というような説明ではなく、人間の内面への探究が関わっているのだという。つまり「意識」というものへの関心がそこにあるというのである。
 
第二部は「音楽と諸芸術」と題され、とくに美術の歴史と強いつながりがあるという視点を提供してくれる。まずは「イタリア・ルネサンス芸術と音楽」で、遠近法と音楽との関係など、興味深い話題が提供される。「魔笛」という総合芸術は、オペラという、かつての西洋音楽の王道がどのように認められてきたかを雄弁に語るであろう。続くロマン的なものにおいては、シューマンの歌曲の意味を問う。ドビュッシーとなると、やはり美術での「印象派」との関係が問われて然るべきであろう。本書では、その点がテーマなのであった。
 
第三部は「音楽と社会」である。ベートーヴェンという、職業作曲家の出現は、ただの出来事である訳ではない。「近代人」という、いまにつながる社会の仕組みと考え方の変化がそこには潜んでいる。ショパンとリストにしても、ちょっとしたアイドルのような存在がそこに発生しており、商品としての芸術のあり方があたりまえのようになってゆく。こうなると、ブルースからポップスへの流れが用意され、ビートルズの登場が解説される。
 
また、社会的な観点といえば、「ジェンダー」問題も気になるところであろう。戦後の日本の流行歌の世界を取り入れながら、ポピュラー音楽と女性の問題を描く。女性の立場が大きく変わってゆく中で、歌詞や音楽にも大きな影響が見られるのだ。
 
最後の第四部は「音楽史の原理」という指摘がなされているが、「メディアとしての楽譜」の解説から始まる。つまりいまの「五線譜」とは何か、検討されるのである。昔の記譜法や作曲者の意図などのための、楽譜の意義について検討される。また、それまで「歌曲」がメインだった音楽の世界が、「器楽の誕生」する背景について触れられる。最後には「調性」というものについての簡単な説明が加えられる。音楽にそれなりに通じていないと読みづらいかもしれないが、平均律の問題は、音階の美しさの徹底を犠牲にし、転調を生み出すメリットを重視したことになる、解説される。20世紀末の本なので、当時の日本のポップスやヒット曲が例に用いられている点は、ある意味で残念であるが、その後いまなら、どういう例が取り上げられるだろう。ヒゲダンの転調などは、論じてほしい代表例と言えるかもしれない。
 
余談のようにして、最後に「ポストモダーン」の時代を、思想に倣って過ごしてきた私たちだが、その後どう動くのか、楽しみにする様子を見せてくれる。このとき、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』が取り上げられているのが、示唆に富む。つまり「遊ぶ人」である。「合理主義に憑かれ、合目的性に向かって突っ走り、遊び=ゆとりを喪失した過程が西洋史なのである」(p190)と筆者が述べ、ホイジンガの言葉として、「信の文化は何らかの遊戯的な内容をもたずには存続していくことができない」とし、その前提として、「文化とはみずから自発的に承認した一定の限界のなかに成り立つものなのだ、と理解することのできる能力」というものがあるのだ、と告げている。だから「みずからを限界づけながら、おのずと自分自身に還る手段を、ホイジンガは「遊戯」と呼んだ」と言うのである。かつて「わたし」を求めて「わたし」を表現するものとして展開してきた芸術であったが、そのどれもが、「わたし」を自分の内側にひたすら向けてきた。しかし、「私」だけを見つめればよい、とするのは単純すぎないだろうか。ブーバーの「我と汝」に触れながら、本書は、一種の「他者」の存在を示唆して結ばれる。
 
かつて、その絶対的な他者として、「神」が当然のものとしてあった。昔のままに「神」を取り戻すことがどうしても必要なのかどうか分からない。だが、新たな形での「信」というものが、何か必要な時代になっているのではないか、と私は素朴に考えたのであった。

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