『深い河』(遠藤周作・講談社)
昨今、こうした文学者の本が入手しづらくなっている。先日は大江健三郎の本を、と思ったが、一向に見当たらないのだ。ノーベル賞を受けても、書店は置かないのである。遠藤周作もかつては多くの人気作家コーナーに並ぶような売れっ子だったのに、いまはさっぱりである。
NHKの100分de名著の「宗教とは何か」に、この本が紹介されていた。4人の論者のうちの1人が扱っていたのだ。粗筋のようなものも当然そこには書いてある。だが、それで分かったような気にはなれないのが、小説というものだ。設定くらいを頭に置いて、しかし読書体験をしてみなければ分からないぞ、とそのテキストは再読せず、本書を探した。なかなかなかった。図書館から借りようか、と思っていた矢先、TSUTAYAで偶然見つけた。110円だった。しかも、ほぼ新品同様と言ってよいような質の良さ。いまは遠藤周作を知る人も少なくなったということなのか。知りたいと思う人がいないのか。
私もそれほど多くの作品を読んだわけではない。キリスト教関係のものが多く、たぶん十冊程度ではないかと思う。その中に、この『深い河』は入っていなかった。長編だということと、遠藤の神観念に必ずしも共感できないところがあることなどがあり、遠ざかっていたのだ。すると、私もまた、遠藤周作という作家を忘れていたことになる。世間をとやかく言える立場にはない。おまえは今頃、やっと読んだのか、と軽蔑の眼差しで見られても仕方がないと思っている。
遠藤は、カトリック教会に属しながら、独特の神観念をもっていた。そのため、カトリック教会からは禁書扱いを受けたこともある。その後どうなったか知れないが、いわば異端呼ばわりされたのだ。しかし、それは遠藤自身の正直な思いであり、信仰の表明であった。文学としては、もちろん申し分のないものだ。
気がつけばクリスチャンとされていた。それが当たり前のような人生を歩んだ。だが、それを与えた母はまた、文学者としての道をも与えてくれたのだった。比較的早く母を喪い、遠藤は母への思いも重ねつつ、神の中に母というものも見るようになる。奇蹟を華々しく見せたかのような福音書のイエス像とは異なり、無力でありながらも人々に寄り添うイエスの姿を心に感じていた。しかし、それをそのままにイエス・キリストとして描いたら、当然組織的教義を構築するカトリックからは睨まれることになる。
本作品は、遠藤周作の殆ど最後の作品に近い。自分の作家生活の集大成のように考えていたのではないかと思われる。それは、ヨーロッパに源を有するカトリックのキリスト教に対して、それとは違う日本人としての自分の信仰を問う意味ももっていたのだろう。また、よく言われるように、ヒックの宗教多元主義の影響を確かに受けている。だが、それで説明できるようなことではない、と私は感じる。ヒックは遠藤の応援者に過ぎない。道を走る遠藤にとって、それは声援のひとつなのである。走るのは遠藤である。そして、物語の中では、登場人物一人ひとりに、遠藤のある一面を重ね、また遠藤が失っていったものの一つひとつを委ねている。
物語は、幾人かがばらばらに登場する。それぞれに重いものを抱えている背景が物語られる。これほどに結びつきのない数人が細かく描かれるというと、この先物語はどうなるのか不安に思わせるものである。だが、このそれぞれが、インドのガンジス川で揃う。それが「深い河」なのである。これはゴスペルにおいて、ヨルダン川を意味していた。遠藤はこの霊歌にヒントを得たことも、確実視されている。
だが、遠藤はこれをガンジス川を舞台にした。それは何故か、それは読者が一人ひとり感じるしかない。たとえば、この深い河が、よく言われるように、宗教はどれも同じですべてはその流れに包まれてしまう、と受け取ってよいのかどうか。その点、加藤常昭先生が、深い洞察をしているのを偶々見つけたのだが、宗教者としての深い洞察に、私は共感を覚えるものだった。
キリスト者としては、やはり神父への道を歩んだ大津という男の言葉に注目せざるをえない。いわば遠藤のキリストとキリスト教への考えを代弁することの、一番多いキャラクターである。そのため、大津はフランスの修道院で神父になろうとするが、認められない。教会には認められないが、自分の中にはキリストが確かにいると知っている。
そんな大津は、学生時代に美津子と論争したとき、冴えない男であり弱気であるにも関わらず、はっきりと言う。「ほくが神を棄てようとしても……神はぼくを棄てないのです」と。そして後に、同じ美津子に向かって言う。「あなたから棄てられたからこそ――、ぼくは……人間から棄てられたあの人の苦しみが……少しは分かったんです」
大津は、傍目から見れば、何の意味もない生涯を送ったかのように、見えるかもしれない。だが、決してそうではない、と私は思いたい。それを初めとして、信仰をもつ方なら、物語はどこからも目が離せない。インドの情景描写も臨場感がある。最後の場面を導くための伏線もたっぷりあるし、一人ひとりの性格や背景が、遠藤の信仰としっかりと結びついており、巧みな構成であると言える。もしかすると、以前に読んでいたら、私にはそれが分からなかったかもしれない。いま読んだからこそ、切ないくらいにそれが響いてくる。神は、まさによい時に、この物語と出会わせてくださった。