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なぜと問いたいときがある (詩編131;1-3)

旧約聖書にヨブ記というものがあります。妙な言い方をしますが、神は何を迷ったか、悪魔の誘いにまんまと乗って、悪魔と賭をするようなことになります。全く奇想天外な話です。賭の対象は、この世の善人・ヨブという男。立派な人間だという神に対して、悪魔は、それはヨブが幸福だからだ、それを奪われると神を呪いますぜ、と持ちかける。
 
果たして、ヨブは全財産を失い、子どもたちを災害で亡くします。しかしヨブは神を呪いはしませんでした。神は賭に勝ったと悪魔に自慢しますが、悪魔は、ヨブ自身の身に及ぶ不幸がまだないからだ、と強がります。ヨブは、重い皮膚病にかかり、痒みがあったのか、たまらない苦痛を味わいます。しかし、ヨブはそれでも唇を守りました。
 
そのヨブの許に、三人の友人がやってきます。友たちは、この不幸の連続の中に呻くヨブのそばで一週間沈黙したままでしたが、やがてそれぞれがヨブに口を開きます。たとえば、きっとお前は陰で悪いことをしていたのだ、その罰だ、というふうに理屈をつけます。そう、私たちは他人事である不条理な出来事に対しては、なにか理由付けをして、こちら側だけ安心したいのです。
 
ヨブは徹底抗戦を図ります。こうしたやりとりがヨブ記の大部分を占めますが、最後に神自身が現れて、自然の壮大さをヨブに突きつけて、これらを創造したのは誰かとヨブに問います。これがしばらく続くと、ヨブは神の前にうなだれました。その場面をお読みします。
 
42:1 ヨブは主に答えて言った。
42:2 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
42:3 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
42:4 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
 
ヨブは、人間の分際では分からないこと、できないことにまで、自分が首を突っ込もうとしていたことを思わされ、神の前に悔い改めをします。これは列して「反省」ではありません。キリスト者は、神を前にして「反省」などをすることはありえません。
 
そのヨブは、少し前に、こんなことも言っていました。
 
40:3 ヨブは主に答えて言った。
40:4 わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。
40:5 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。
 
さて、ここまで引っ張ってきておいて言うのもなんですが、今日はヨブ記から聞くもつりはありません。詩編です。ただ、いままでの話で、ヨブが神に降参したときの思いと、今日の詩とは、重なるところがあるように私は感じたので、ヨブ記をご紹介した次第です。詩編131編は短いので、改めて全体をお読みします。
 
131:1 【都に上る歌。ダビデの詩。】
主よ、わたしの心は驕っていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大き過ぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。
131:2 わたしは魂を沈黙させます。
わたしの魂を、幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。
 
これをヨブ記と結びつけることは、きっと多くの説教者が試していることだろうと思います。なんだかんだと文句をつけたように聞こえたかもしれませんが、ヨブ記は、独創的な構成をもち、重要なテーマを含んでいます。善人が不幸であってよいのか。なぜ神は子どもや立派な人の命を平気で奪うのか。こうしたことは、人間の目から見れば「不条理」だと呼びます。また、そもそも神が存在するなら、この世に悪があるのはなぜか、そんなところにまで疑問は進みます。このようにして、人は問います。「なぜだ」と。世の中にはその例は枚挙に暇がありません。
 
しかし、神を恰も擁護するかのように、これには訳がある、神の意図があるのだ、などという立場の人たちもいます。用語としては「神義論」または「弁神論」と訳される語が、18世紀初めに、ライプニッツの本で唱えられました。彼は「最善説(オプティミズム)」の観点から、神はこの世に最善をなしたもう、というような考え方を提示したと言われています。このライプニッツを徹底的にコケにする物語として描かれたのが、その半世紀後に著された、ヴォルテールの『カンディード』でした。奇想天外な出来事が立て続けに起こる中、カンディードの家庭教師である哲学者パングロスが最善説を言い続けるのが、笑いものにされます。これは、1755年に世界のトップだったポルトガルを没落させたリスボン地震を動機として生まれました。ヴォルテールは怒ったのです。この悲惨な震災を見て、最善説など、語れるはずがない、と。
 
私たちも様々な災害を背負っています。1995年の阪神淡路大震災は昨日のことのように思い返しますが、すでにここから四半世紀を経ました。洪水や大水はここのところ毎年のように襲いかかります。地震となると、つい十年前、東日本大震災を見ました。いまも問題を抱えた人が多々います。
 
NHKの連続テレビ小説「おかえりモネ」が10月末に終了しました。東日本大震災のその日、島にいなかったモネが、なかなか帰れず、苦労した友人たちに対して負い目を負い続けた十年間を描きます。突然襲いかかった地震と津波自体は、避けようがありませんでした。それは分かっていても、犠牲者と財産の喪失、そして残った人の心に置かれた重い重いものは、十年ほどで消えるものではありません。ドラマでは、祖母を見捨てて逃げた、ヒロインの妹の心にもそれがのしかかっていたことが、最後になって明かされました。
 
モネの主演を好演した清原果耶は、まだ19歳とは思えないほどに、ドラマをすっかり私たちのものにしてくれました。ちょうどその最終週に、私の妻が、佐藤健見たさに、私を映画に誘いました。「護れなかった者たちへ」という映画です。こちらにも清原果耶が重要な役についていました。ネタバレはしたくありませんのでストーリーについては明かしませんが、佐藤健と清原果耶は、どちらも東日本大震災で孤独になります。これに倍賞美津子が加わって、三人は結びつき、疑似家族のように暮らします。こうして、震災から十年後に、事件が起こります。生活保護の問題を絡めながら、やはり地震や津波そのものはどうしようもないが、人の制度は変えられるのではないか、そのためには声を挙げることがどんなに大切であるか、映画は私に突きつけてきました。
 
そもそも震災そのものが不条理です。人から見れば「なぜ」と問いたくなります。でも、それを恨んでも、やはり仕方がない面があります。この地震まで神が起こしたのか、だから信じない、という人も世の中にはいますが、それよりも、なんとかならないか、と思うのは、やはり人のつくった制度や、人のしてしまったことのように思えました。モネの方では、祖母を見捨てて逃げてしまったとようやく告白できた妹に対して、モネは「悪くないんだよ」とくり返すところが印象的でした。この言葉は、もちろんキリストとはまた違いますが、ひとつの赦しの宣言のように聞こえて仕方がありませんでした。そう思うと、福音書の中であっさり書かれてあるけれども、イエスに癒された、罪は赦されたと宣言された当事者は、どんなにか嬉しかっただろうと感情移入してしまいました。
 
映画のほうでは、最後に、子どもたちへのメッセージも感じました。未来のいのちを守りたいと思いが、唐突に出てきた場面でした。でも、それは映画全体のメッセージともつながることだったと思います。最後に海を見て、事の次第が分かったと思ったとき、震災で重くのしかかっていたものが軽くなり、心の疵が少し癒されたように見えたのは、私だけではなかったことでしょう。そうなると、モネのほうでも、また海が締めくくります。震災からの十年を描いただけでも二つの作品は重なるのに、最後に海を見るというのも、全く同じでした。モネだも最後の最後で、集まった子どもたちに海を見せて、海は好きかと尋ねるのです。恨んでも恨みきれないようなあの海を、子どもたちには嫌いになってほしくないとの願いではなかったでしょうか。
 
地震も津波も、ある意味で不条理の極みに違いありません。けれども、そこにだけ思いをぶつけても、抜け出すことができません。何かに気づいて、前を向くことができるかもしれません。清原果耶さんがどちらも輝いていたこれら二つの作品は、震災からの十年を描く中で、そんな力を、震災当事者のみならば、見る私たちすべてに注いでくれたような気がします。もしも傷ついた方々にも、そんな力が少しでも与えられた、と願わざるをえません。
 
神に「なぜ」と尋ねたい、こうした悲惨な災害、そして人が起こすトラブル。どこに希望があるのでしょうか。元の詩は、ひとつの解決を用意しているように見えます。
 
131:3 イスラエルよ、主を待ち望め。
今も、そしてとこしえに。
 
これで詩が結ばれます。旧約聖書のこの詩は、こうしてひとつの希望を提示していると受け止めてみましょう。それは、現代の私たちの、誰に対しても力になるようには思えませんが、神を信じる者は、この言葉から何かを受けるチャンスがあるものと期待したいのです。
 
それでも、私はまだ、「なぜ」と問う余地を残しています。すんなりと、「主を待ち望め」ではまだ終われない、心の引っかかりをもっています。
 
長男と同い年の教え子を、突然奪われた経験があるからです。結果的にたった数万円のために、家族が凶悪な犯罪の犠牲となったのでした。その犯人たちの国そのものは何の関係もないのに、それでもいまなおわだかまりが残っていることを、否むことができません。未だに、このことに着いての「なぜ」は、私の中では少しも解決していません。
 
それも神の業ですよ、などと平気で言える人がいたとしたら、どうでしょう。きっと神さまはその子のことも、などという、説明じみた慰めは、到底受け容れられません。もしいたらの話ですが、私たちはそういう人のように、誰の不幸にも、苦労に対しても、いつもよそ事であり、他人事でしかないのだろうと思います。皆さんにも、そうした「なぜ」があるのではないですか。いえ、自分は不遇だったとか、自分に意地悪をした人が許せないとか、そういう次元の話ではないのです。
 
「なぜ」と問いたいことは人により様々あるでしょう。新約聖書の中でも、ある場面で、「なぜ」と悲しむ人たちがいて、それに対して、パウロが賢明に呼びかけている手紙があります。いま私たちが知ることのできるパウロの手紙の中で、最も時代の古いもの、つまりパウロがまだ比較的若かった時の文章です。有名な、テサロニケの信徒への手紙の一から引用します。
 
4:13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
 
パウロは、キリストの復活をもちろん信じていましたが、再びキリストが来るといういわゆる再臨についても強い信仰がありました。それも、もう間近だ、今日か明日かというような切迫感すらもっていたようにも聞こえてきます。テサロニケという地の特徴やそこにいる信徒の気質や背景などは、私にはよく分かりません。比較的大きな港湾都市であり、マケドニアの主要部であったらしいことから、やはり都市的な様相を帯びていたのではないかと予想します。
 
テサロニケでイエスの福音を受け容れた人々は、パウロが呼びかける、今にキリストが再臨するから、という言葉を信じていたのでしょう。けれども、そんな中で、仲間が、家族が、寿命だか何だか分かりませんが、亡くなってゆく。いったいこの人たちはどうなったのか。再臨のキリストに出会う前に死んでしまったら何にもならないのではないか。
 
パウロはそうした疑念に対して答えるような口調で、これらを書いたのではないか、と考えられます。真相はどうだか分からないので、あくまでも推測に過ぎませんけれども。ただ、これは日本人がキリスト教を信じたときに、似たような話があったと聞いています。いったい、ご先祖様はこの福音を聞いていないが、救われなかったのか、と。なんとあのサビエルもこの質問をぶつけられ困っているという文書があるそうです。いえ、これは昔の話ではなく、今でも話題になりうることに違いありません。そして、必ずしもキリスト教側の回答は、歯切れのよいものではないような気がします。定説というか、明確な解決が、決まっているようにはいまなお見えませんから。
 
パウロはテサロニケの人々に、終末の姿を描いて見せます。この世の終わりに、私たちとキリストはどうなるのか、パウロの見たであろう幻を示します。それで彼らが慰められたのか、信用したのか、それは定かではありませんが、パウロの手紙としてこれが残り、聖書として扱われていることからすると、キリスト教徒というものは、これを信じ、さらに教義にもしたという歴史の流れは確かであるように思われます。
 
ただ、パウロが生きながらにしてキリストとこのようにして会う、という幻は、少なくともパウロにとって、現実のこととしては起こりませんでした。パウロが死んだ後も、世界の歴史は続いています。
 
だったら、聖書は嘘をついていることになるのでしょうか。聖書を信仰していると公言するからには、聖書に書いてあることは本当ではありません、と言うことは簡単ではありません。アイデンティティが保てないからです。それでも、何かしら理由や理屈を持ち出して、両立するようにする、それが多くの人の知恵となっているのかもしれません。それほどに、聖書に記されていることが、科学的・歴史的にある意味ではその通りです。ですからこれは大変難しい問題です。
 
私は、無理に理由付けを急ぐ必要はないと考えています。しょせんそういうのは、人間の知恵です。人間の知恵で支配出来ないのが、神というお方です。神の自由です。私たちは、人間的自由を哲学的に論じます。神学的にも論じます。けれども、神の自由ということには論じようがないようです。神を縄で縛りあげ、ねじ伏せようとするような行いになるからです。神の言葉は、放たれたら現実になる、そのような、人間を超えたものとして存在します。
 
となれば、パウロの幻が現実にならなかったではないか、と指摘することは、パウロの言葉は神の言葉ではなかった、ということになるのでしょうか。
 
そのように見られても仕方がないとは思います。ますます私は不安になります。聖書を手にして、これを信ずると告白している私のような者にとっては、アポリアに陥ってしまいました。ここで開き直って、聖書はそういうものなんですよ、などと他人事のように見るのは止めましょう。それは私の趣味ではありません。こうなると、正にこれこそ、聖書の中の不条理にほかならないということにもなります。いったい信ずると告白する私は、この不条理に、どう向き合うとよいのでしょうか。
 
私はここでも、自然と口を突いて出るように、問いかけます。「なぜ」と。この問いかけ自体が不信仰だ、と考える人もいますが、私はそうは思いません。神に問いかけるというのは、神の方を向いているということです。神の応えを求めているということでもあり、それだけ神を信頼しているということでもあります。詩編の詩人たち、あるいは預言者たちは、幾度も主に問うています。今回の詩人は、このような要点を歌っていました。
 
わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。(1)
わたしは魂を沈黙させます。(2)
 
これは、不条理を回避する知恵ではなかったかと思うのです。人が何か出来事を不条理だと思うのは、えてして、自分の思う通りにならない、という場面です。思っていたのと違うとき、あるいは思う理想と食い違うとき、道理に合わない、こんなことはあってはいけない、などと口走ります。しかし、私の貧しい頭脳や自分勝手な心の及ばぬ、超越的なものが世界には必ずあるわけです。詩人は、そのようなものをもう追い求めはしない、と言っています。そうして、思いのままにはならないというジレンマを抱えて苛々するような、ざわめく心を、穏やかにすることを求めるようにしています。
 
そして、実際次のように詩が結ばれる時、はっとさせられるような気がします。
 
主を待ち望め。
今も、そしてとこしえに。(3)
 
自分の知恵や理解ですべてがうまくゆくものではないのだから、主の力が現れるのを待ち望もう、これはよいのです。他の詩編にも登場します。また、「今」というのももちろん結構です。今私たちは、この主を待ち望めとのかけ声を共に歌います。この詩はそもそも「都上りの歌」でした。一生に一度できるかできないか、というほどのものではなかったかもしれませんが、こういう機会でもなければそもそも旅というものができなかったであろう当時の人々にとり、エルサレム神殿に仲間と共に向かうというのは、喜ばしい旅であったことでしょう。私たちも現代に、イスラエル旅行とか聖地旅行とかいうものに行くとなると、きっと興奮するだろうと思います。この時に気分が高揚して歌うようなものです。そこで「今」主を待ち望もうというのは、まさに今喜んで主を見上げている中で、尤もなことだとは思うのですが、続いて「そして、とこしえに」とあるところが気になります。
 
とこしえに主を待ち望め。永遠に主が来ないという意味ではないだろうと思います。「今」待つことと、「とこしえに」待つこととがつながっているように聞こえて仕方がないのです。
 
新約聖書では、しばしば永遠の命が求められていました。もはや今それを拾い上げる必要はないでしょう。しかし「今」がその「永遠」につながる、というような視点を、ここで私たちは再び与えられます。そのことは、前々回、詩編92編を味わったときに、共に学びました。神は時間をも超えた方。歴史的時間的制約の内にある人間や被造物とは異なり、二千年前の十字架の出来事と今の私の救いとさえ直結することを導いたのだ、と捉えました。それと同様に、ここでもまた、詩人は「今」が「永遠」とつながり、あるいは重なるということを告げていたのだ、というように読んで見たいのです。
 
清原果耶さん出演の二つのドラマと映画は、どちらも東日本大震災とその後の十年を描くものでした。被災された方々のお気持ちを察することができるような者ではありませんが、私は、それらはどちらも、最後に海に目を向けていたことに、癒しや希望を感じました。もしかすると、当事者の中にも、そうしたものを感じ取った方がいるかもしれない、と思います。不条理な災害を起こしたその当の海に、希望があるとするのならば、まさにそれこそ不条理であるのかもしれません。しかし、詩人のように、人の考え方をほんの少しでも止めて、沈黙し、それを超えた大きなものに期待を寄せよい結果を待つような思いに浸ってみたならば、かの大きな海を見つめて幕を閉じたドラマと映画に、何か通じる意味があるのではないか、と思うのです。
 
キリスト者と言われる者は、十字架と復活を信仰の基盤に置いている者です。これほどに不条理なものはないと思われる、そのようなことを信じているというのです。「なぜ」と問わなければならないのは、本来この点であるのではないか、と言ってもよいのではないでしょうか。「なぜ」と問うことが悪いのではないと思います。神に向かい問うことは、神を信頼しているからこそできることです。「なぜ」と問うからには、自分の考えの通りにならない、理想に合わない、そんな心情からという場合もあります。今日の詩から、その心情にブレーキをかけることができたなら、今と永遠のつながりの中で、私たちは大いなるものを信じる豊かさの中に招かれていることに気づくことができると思うのです。だから、聖書の言葉は、今このときにもなお、私たちに迫ってきます。今その言葉に私たちが励まされ、助けられ、救われたということが真実であるのは、不条理中の不条理であるはずですが、現にいまここに、その救いが起こっていることを、私は知っています。あなたも、ご存じのはずです。キリストを信じている、あなたは。

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