うわき


2020年10月13日 火曜日

寝坊しました。

徹夜で自己顕示欲を研鑽していたら、寝坊しました。反省しましょう。

本記事の凡そのテーマは「うわき」。きっかけはTwitterにてフォロワーのRTにより私の元に届いた一つの呟き。まぁ、些末なきっかけですが、そんなきっかけ以前より私には「うわき」に対する確固たる持論がありまして、それを筋にしてまたダラダラと書いて行けたらなと思います。

過去に浮気をされた、または現時点で浮気されている人の背中を鋭利な刃物で一押ししたりしなかったりする記事です。お時間に余裕があればお付き合い下さい。

※浮気や不倫を肯定するものではありません。

[前置き]

「ずっと好きだったのに」、「好き合ってた筈なのに」、「あれほど、“愛してる”って言ってくれたのに」と、読者の皆様がもし浮気をされたら、そんな言葉を並べられるのでしょうね。

無論、間違いじゃあない。だって仮にも愛を誓い合った仲なのだから、振られたら後腐れの一つや二つ無い方が非人道的とさえ言えます。

だけど、まぁ、「女心と秋の空」では無いけれど、むしろ、それ以上に人の心という物は季節よりも目まぐるしく移り変わる物だと思います。生まれてから考え方が一貫して変わらないという方が不気味だし。

そうやって人の気持ちってのはコロコロ変わるから、二人を縛り合う為に、法の下で「結婚」という束縛を互いに掛け合うわけで。気が変わって別の異性に手を出した際に、合法的にペナルティを与える為に「結婚」するのであって。足枷なんですよ。結婚ってのは。デメリットの方が多いし。

※浮気や不倫を肯定するものではありません。

昨今は、まるでスマートフォンの機種変をする心持ちで離散するカップルが多いですね。“スペックが高い方に乗り換える”とか“金持ちの方が安定してる”とか、まさしく機種変ですね。人をなんだと思ってるんでしょうか。

“重い愛”が正しいとは言いませんが、こうも軽率に別れを切り出されるのも、確かに酷というものです。仮にも“想い合い”、思い合ってた間柄だというのにね、あんまりですよね。 


しかし、まぁ、これについてハッキリ、言わせて頂くと…


仕方ない。仕方ないんです。はい。

かなり仕方ないです。仕方ないの部類でもかなり仕方ないレベルの仕方なさです。


コレは私の持論ですが「振られた時点で、間違いなく自分にも非が有る」。間違いないです。どれだけ適当に、雑に、手酷く振られたとしても、それは適当に、雑に、手酷く振る理由が確実に有るという話しなんです。

例えば、自分と付き合ってた人が(この場合、相手は女性とします。相手が男性の場合は広瀬すず・橋本環奈あたりで御想像下さい)自分を捨てて菅田将暉さんと交際を始めたとすれば、それは“菅田将暉じゃない自分が悪い”んですよ。決して菅田将暉さんに乗り換えた女が100悪い訳じゃあないんです(悪い事は悪いんですが)。だって、そうでしょう?自分が菅田将暉だったら振られて無かったんですから。

と、まぁ、これは極論ですけどね。当たらずとも遠からずと言った所です。どれだけ注意してても隠しきれない欠点に相手は嫌気が差したり、好きすぎるが故に相手を必要以上に異常に束縛し過ぎていたり、歳を重ねて若さ由来の魅力が欠けて絶対的に醜くなったり、相手の周りにいる人が美しすぎて相対的に醜くなってしまったり。結果として別れを告げる理由なるものは、凡そ自分に紐づいているんですから、振られるって事は自分が悪かったって事なんです。飽くまでも悪魔的持論ですが。

“現在”の自分が嫌になった相手に“昔”は愛してるって言ってくれたじゃない!とか、もう、その時点ですれ違ってますよね。振られても仕方ないですよ、これじゃあ。

そもそも言葉なんて形の無い物に、藁ですら無い物に、上流から下流に流れるだけの川とも風とも違う一過性の誓いとやらに、よく縋って居られるなと思います。こんな事言ってしまうと本末転倒ですが。むしろ、だからこそ、結婚というのは紙面で法的に契約を結ぶわけですし。

しかし、よくもまぁ、好きな人の言う事をはいはい聞いていられますね。疑いもせず、相手が声帯を震わせて発生させた音を、あまつさえ“気持ち”などと買いかぶり、受け容れられますね。恋は盲目といいますけど、難聴も併発してるんじゃないんですか?耳鼻科行ってこい。

※浮気や不倫を肯定するものではありません。


散々言ってますが、私も過去に振られた事があります。ちゃんと振られてます。それはもうしっかり傷つきました。全治12ヶ月。憎い悲鳴の渋滞です。バッチリ病みました。今でも元カノの事は憎んでます。この世で一番大嫌いで、今までで一番大好きだった人です。

何度か振られて悟った、では無いんですけど、もう、それはしょうがないと割り切るしか無いんだなと、自分の中で落ち着きました。きっと、解決するだけ無意味で無駄で無価値な問題が、脳内に散らかり放題している状態で、それで一件落着と飲み込んだ方が、楽なんだなと、逃げました。

逃げる口実として「振られたのは自分が悪い」というのは余りにも充分すぎるものでした。抗おうとする感情というか、自分を陥れたクズに危害を加える気概というか、そういう醜い感想が一瞬で無くなりました。理屈というより“おまもり”の側面が強い持論です。

振られて頭に血が昇ってる人は、きっと「振られる→自分は被害者→加害者は悪=自分が正しい」みたいな式が脳内でめちゃくちゃに乱立してるんだと思います。人は正しさを手に入れた時、悪に染まった人よりも邪悪になります。無意識に、独善的な鬼退治を決行します。仮に、鬼退治が成功したとして、自分の足元には何が残るんでしょう。鬼の骨でしょうか、鬼を誑かした人の骨でしょうか。そんなことをしても結果として何も残らないんですよ。ただでさえ愛する人を失ったというのに、他の大切なものまで失ってしまう。無意味で無駄な問題でしょう。

※浮気や不倫を肯定するものではありません。

~話半分の恋愛をしよう~

詰まる話、相手の言葉を生半可に信じるから傷を負うんです。信じるという行為を突き詰めて行くと「相手の裏切りを覚悟・受容する」と、なります。言葉の水面、うわっつらだけをすくって大切にするんじゃあなくて、相手の言葉を全て飲み干した上で、毒に当たっても、酸でただれても受け容れる寛容さを持っていなきゃいけないって事なんです。それが人を信用するって事なんです。

いやでも、それってムズくないですか?ムズいんすよ。そんなの。一人相手に出来たとしても、今後交際するかもしれない数人数十人全員に出来るかと言われたらハッキリ申して無理です。

ですから、その代替の策として“話半分の恋愛をしよう”です。

交際相手に真剣に向き合わないのかよ、と思われるかもしれないですけど、何も「適当に返事をして、雑にデートをして、手酷くSEXをしろ」とは言ってません。相手の言葉を信用し過ぎないって事です。相手が自分の事を本気で好きならそれでいいし、それでいて自分が相手を本気で好きならそれでいいじゃないですか。言葉とか、要らないじゃないですか?別に。「ぼくはこれくらいすき!」って、好きの度合いを言葉で表現するバカップル紛いの事をやりたいなら話は別ですけど。

そもそも相手の愛の度量を言葉で計ってるから足元掬われたりするんですよね。言葉は愛の判断材料じゃないし、前述のように不確かなものですから。ですから言葉は半分にその分愛してあげればいいと思います。


「浮気するヤツはクソ」それは確かにクソかもしれませんが、クソに振られる理由を省みた事はありますか?という話でした。


今日は夜勤です。夜の渋谷にはたくさんの人が居ますが、なかなかどうして、これ程までに近くですれ違っているのに果てしなく他人だと感じるんでしょうかね。冬の訪れに寒くなるのは気温や財布だけじゃあ無いみたいですね。






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