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海太郎、海を行く #5 カニ

トビウオたちへの海底メモを書き終えた海太郎が、次なる海域へと足ヒレを掻き始めたその時だった。

「書き置きですかい?」

振り返ると、声の主は、たった今書き終えたばかりのメモの隣に居た。

カニだった。

「なるほどなるほど。トビウオたちに残したメモか。しかしこのメモの存在に、トビウオたちは気付くかな?」

「見落としますかね?」

「うん。多分、気付かないでしょうね。トビウオたちの活動エリアは海面界隈だから、彼らは、あまり海の底は見ないと思う」

「なるほど。これではだめか…」

「あの、良かったら、私がこのメモをトビウオたちに伝言して差し上げましょうか?」

「あ、お願いしちゃっていいですかね。カニさん」

「うん、いいですよ。ただし条件があります」

「条件?」

トビウオといい、カニといい、どうやら海洋生物たちというのは交換条件を好むようだ。それは大海原を生き抜く処世術、もとい処海術といったところか。

「私にジャンケンで勝ったら、トビウオたちに伝言してあげますよ」

海太郎は思わず吹き出してしまった。くちから噴出された大きな空気の塊が、ポヨンポヨンと水飴のようにうねりながら、海面をめがけて登っていった。

ジャ、ジャンケンかよ…。

交換条件でもなんでもなかった。単なる遊び。しかも、まさかカニのほうからジャンケン勝負を挑まれるなんて思ってもみなかった。

どう考えても俺の勝ち。勝ち確。勝負する前から己の勝ちを確信した海太郎は、ニヤニヤが止まらなかった。

「いいですよ。ジャンケンしましょう。私が勝ったら、トビウオたちにメモの内容を伝えてくださいね」

「はい、わかりました。では勝負です!」

「いきますよ? ジャンケン…」

「ジャンケン…」

「グー!」

海太郎が自信たっぷりに固く握った拳を突き出した、その刹那!

カニは海底の砂を蹴って海太郎が差し出した「グー」の前までユラユラ浮かびあがり、そこで両手のハサミを折り畳んで胸元に隠し、残りの八本足を目一杯広げて叫んだ。

「パアー!」

カニが大声で叫んだから「パー」だったのではない。その姿形は、紛れもなく「パー」の形状であった。

愕然として膝まずく海太郎に、カニは言った。

「あなた、なんで負けたかわかりますか?」

衝撃の結末に、すっかり色を失った海太郎は声も出せない。

「あなたはなぜ負けたか? それは、あなたの中に、カニはチョキしか出せないという思い込み、決めつけ、早合点、油断、楽観、慢心、見下し、調子こき、経験不足、童貞…」

「いや童貞は関係ないでしょ…」

「おっと失礼…。まあとにかく、あなたの思い込みから生じた油断が、この勝敗結果を招いたわけです」

人生一寸先は闇。油断してると、どんな落とし穴に嵌るかわからない。カニに諭され、海太郎は、それをまざまざと思い知った。

カニの説法は続いた。

「いいですか? 我々、海の世界には、古くから伝わる[イサキとウミガメ]という童話があります。ある日、イサキとウミガメが水泳の勝負をするのですが、イサキはウミガメ相手なら楽勝だとたかを括って、レース途中で昼寝をしてしまうんですねえ…」

[イサキとウミガメ]か。なんだか[ウサギとカメ]に似ているな。いや、これはどちらかの作者が間違いなくパクっているだろうと、海太郎はひとりごちた。

ところで、ジャンケン勝負に破れてしまったのだから、やはりカニは、トビウオたちへの伝言は引き受けてくれないのだろうか? 最後に海太郎が質問すると、「うん。やらない」と言ってカニは歩き始めた。妙なところは意固地だなと思いながら、海太郎はカニの背中を見送った。

カニは横歩きではなく、縦歩き、つまり前歩きで去って行った。

カニの中にも前歩きの種は実在する。

何事も思い込みは禁物であるということを、カニから学んだ海太郎であった。

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