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海太郎、海を行く #1 さようなら

素潜り漁師である海太郎には秘密があった。それは海洋生物たちと会話が出来るということであった。だが、厳密にいうと、これは秘密にしてきたわけではない。彼は思春期を迎えた頃、真剣に両親に打ち明けたことがあった。おっとう、おっかあ、黙っておりましたが、自分は本当に魚と会話が出来るのでございます、と。しかし両親は、なにを言っとるんだこのバカタレと、まったく取り合わなかったのである。

以来、海太郎は海洋生物たちと会話が出来るということを一切口外しなくなった。

信じてもらえない歯痒さというよりも、悔しさ、いや、それよりも遥かに根深い不信感を、海太郎は両親に抱いた。幼少期に同様に打ち明けた時など、おっとうは、そうか、おまえは天才かもしれないな、おまえはお魚博士だと、海太郎の頭をクシャクシャ撫でながら、チクチク顎髭を彼のほっぺたにごりごり押し当てたものだった。おっかあはおっかあで、あら、だったら海には、あなたのお友達がいっぱいねと、優しい香りと温もりが溢れる胸元で、海太郎が嫌がるほど、きつく抱きしめたものだ。ご機嫌な時など、逃げまどう彼を追いかけ回し、キスすることもあった。

おっとうと、おっかあというのは、それぞれ違う匂いがする。それを自然に覚えることが出来たのは、海太郎が両親の愛情に包まれて育ってきたという証しといえる。

それが今ではどうだ。おっとうもおっかあも、目を合わせさえすれば、もっと値の張る魚を上げてこい、ウニやサザエを獲ってこいとなじってくる。代々素潜り稼業の家に生まれた己の運命に、海太郎は最近恨めしさを覚えていた。自分が魚と会話出来るという話を、一体いつ頃から両親が取り合わなくなり始めたのか、今となっては思い出せずにいる。

来る日も来る日も、早朝から日が落ち始める夕刻まで、おっとうと共に海に潜り魚や貝を獲る。今日も明日も明後日も、家と海の往復だけ。

気晴らしに海の中で魚たちと会話でも…、といきたいところだが、海太郎はこれまで海洋生物たちとの会話も控えてきた。なぜか? 情が入ってしまうと捕獲出来なくなってしまうからだ。

「おい海太郎、あしたも来いよ」

「うん、じゃあね。またあした」

これが、海太郎が魚と交わした最後の会話である。会話の相手は、海岸線の棚あたりを泳いでいたシロギスたちであった。その日、シロギスたちと鬼ごっこをしていたこともよく覚えている。ゆらめく昆布の影に隠れ、そこから眺めるシロギスたちの体はキラキラ美しかった。

だが翌日、おっとうが水揚げした魚のケースの中で、友達のシロギスたちが息絶えていた姿を目にして以降、これ以上彼らと仲良くなってはいけないと、海太郎は子供ながらに悟った。

自分の気持ちを押し殺し、日々、おっとうの漁を見守り、時にはそれを手伝い、やがて自身も素潜り漁という稼業を継いだ。しかし、家族や海洋生物たちと触れ合う日常であるにも関わらず、海太郎は孤独であった。

自分をどこか狂人扱いしている両親。そして魚たち、海洋生物たちを裏切っている自分。一体自分は、なぜ素潜り漁という稼業を選んでしまったのだろうか? ほとほと嫌気がさしていた。

そんなある日、海太郎は己に課した禁を破り、今一度、魚たちと会話してみようと思いたった。海底で岩場を漁るおっとうの姿を横目に、彼はゆらりとその場から離れ、砂浜方面の棚へと泳ぎ始めた。

振り返るとゴーグル越しに映るおっとうの姿。逆立ちをした体勢で、銛を片手に岩場の穴を覗くおっとうは、離れていく我が息子に気付かない。

海太郎は足ヒレをゆらりゆらりとさせながら、徐々に小さくなっていくおっとうの後ろ姿に告げた。

おっとう、さよならだ。おっかあによろしくな。

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