祈りの本質
この文章はインスタグラム@non_alcoholic_daysで投稿したものから加筆、編集し、載せているものです。
断っておくけれど、今からする話は宗教の話でも、スピリチュアルな話でもない。
暮しの手帖(2021年春4−5月号)の「すてきなあなた」に、祈りの話が書いてあった。筆者の妹さんが幼稚園の先生をしており、毎日お祈りをするという。カトリックの幼稚園もあるから、一瞬普通だよなと思ったが、お祈りの内容が実に良かった。いつも内容を変えているそうだ。実践的である。
定型文を言うだけの祈りなら、形骸化する。吸収率の良い幼児は、手を組んで目をつむっていつも同じことを言わされる退屈な時間だと認識するだろう。
先程の先生(筆者の妹さん)の祈りを紹介する。
「神様、雨が降って遠足に行けなくなってしまいました。残念だけど、木や花は喜んでいるようです。今日は、みんなが幼稚園で仲良く過ごせますようにお守り下さい。」
「マスクや手洗い、消毒を続けて、コロナから家族やお友達、自分を守れますように」
どうだろうか、文言はいつも変化するけれど、全体を想うこと、他者を想うこと、というのは変わらない。そこには慈悲の念がある。
お坊さんの修行で慈悲の瞑想というのがあるらしい。自分や、今まで接してきた人たちの幸福を想う。
それは他人のためにやっているのではなく、自分が救われるためにやっているのでは?という批判もあるそうだ。要するにそれって全部自分のためでしょ。ということだ。
私は、自分が救われるために人の幸福を願っても良いと思っている。なぜなら自分が救われた状態にいないと、他人のことも救えないからだ。自分が溺れた状態で溺れた他人を救い出すことはできない。
まずは自分が健康で満たされていること。それが基盤となって、他の人のことも祈ることができる。
もしかしたら、幼児たちは、そんなことは考えず、純粋に他者のことを祈れるかもしれない。
未来を担う者たちに、祈りの本質が芽吹きますようにと祈っている。
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