強くしなやかな心を世の中に実装する
「いい人」という言葉が嫌いです。同じくらい「悪い人」という言葉も嫌いです。
「いい」とか「悪い」というのは状態を表すことであって、「人」の前に付ける形容詞ではないと思うからです。
「人」の前につけてしまうと、あたかもそういった2種類の人種がいるかのように捉えてしまう。
「100%いい人」と「100%悪い人」が分断されて存在しているかのようです。
実際には2種類の人間がいるわけではなく、一人の人間の中に良い部分も悪い部分も混在しています。
レジに並んでイライラしている自分
レジに並んで店員さんを労っている自分
友達を妬む自分
友達の幸せを喜べる自分
社会のせいにする自分
小さくても成長しようとする自分
相反して矛盾しているのも自分なのです。
環境や時期によって、「いい」状態も「悪い」状態もパーセンテージが揺れるだけ。
でも、人間は他人の悪い状態によく反応してしまいます。自分のことは直視できないけれど、他人のことはよく見ているからです。
そうして悪い状態の人をあたかも100%悪い人として扱ってしまいます。一時的なごく一部の情報であっても。
弱いから。
人間は能力を過大評価しています。特に自分の心のコントロールする能力は育っていないようです。
もっと注意深くコントロールしなくてはいけないのに、自由に野放しにして苦しんだり、悲しんだり、人を傷つけたり、傷ついたりします。
傷は見つめていても治りません。人を妬んだり、攻撃したりしても治りません。傷以外に眼を向けて行動していくことが必要です。
どうやって?
傷を見つめてしまいそうになる時、コーヒーを飲んだり、エンタメを観たりする。傷を思い出して痛くなっても、すぐに違う思考に持っていけるように、まずは「手」や「目」や体のどこかしらを動かします。
これは「20時のおつかれさま」というメルマガの中で山本ふみこさんが書かれた言葉です。山本さんは、「人の幸せを喜ぶ」ということも練習していくことなのだと語っていました。
今、なんでこのnoteが読めるのかと言うと、ずっと前に読む練習をしたからです。
人間は練習する生き物であり、それがないと一つの行動を成立させることは難しいです。
そして「自分の心を扱う練習」は、残念ながら足りていません。
心というのは、感覚器官の一つなのだと思います。水を触って冷たいと感じたり、日差しが照りつけて暑いと感じたりするのと同じように、ヒリヒリしたり、苦しかったりします。
冷たい水を触りたくないときはお湯を沸かしたり、暑い時には日陰に入ったりできます。
同じようにとはいきませんが、心も練習次第で対処できます。
その一つの鍵となるのは「モノやコト」に眼を向けることです。他者や自分に眼を向けてしまうと、その中に悪い状態を見つけてしまう可能性があり、揺れてしまいかねないからです。
以前、ヨガの先生がこう言っていました。「ヨガはポーズをとることだけじゃない。ただ座って瞑想しているのもヨガ。でも、大抵は、身体的な感覚を伴わないと雑念が入りこみやすいから、ポーズに集中して呼吸の練習をするの。」
気持ちや思考は中々がんこです。動かそうと思っても簡単には動きません。それと切り離して身体は動かすことができます。
手をあげたり、首を回したり、胸をそらせたり、という動きは一見、気持ちや思考を動かすこととは関係ないことですが、一つ一つの動作にだんだんと集中していき、それまでの思考から離れることができます。
ヨガだけをおすすめするわけではありません。別の思考になりたいと思った時に切り替えられるなら、なんでも良いのです。それを自分なりに探すことが重要です。
受動的なものより、能動的なものの方が良いでしょう。動画を観るより読書の方が能動的です。食べるだけより、作って食べる方が能動的です。少しだけでも能動的になるのがポイントです。
取り組んで集中している時間は孤独を感じません。
自分で自分を孤独にしない対処ができれば、心は強くなります。
最初は弱くても、意識していけば必ず鍛えられます。
そういう人が増えれば、世の中に強くしなやかな心を実装することができます。
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