[ 日本史 ]幕末から明治維新までの数々の疑問を考えてみよう!
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江戸末期、日本では尊王攘夷の思想がはびこっていた。おもに徳川に敵対する勢力がそれを唱えていたが、そこには水戸徳川も含まれている。これほどまでに盛り上がりをみせた思想。その元は第二代水戸藩主、徳川光圀によるものだ。光圀といえば「水戸黄門」で有名な老人である。光圀のおこなった仕事、その中心は日本史の編纂だった。この研究の中で、古来日本は天皇が国をおさめていた歴史を解き明かす。ただ欠落していたのは、なぜ武家が政治を担うようになったか?そこがまるで抜け切っていた。
*明治維新とは何だったのか?
幕末、日本を取り巻く世界の状況は、欧米諸国より軍事侵略があったということ。日本を揺るがしたのが中国がアヘン戦争で英国に敗れたことだ。「攘夷」とは、異国人を打ち払うこと。これを声高に主張したのが、当時の孝明天皇だった。この天皇の考えと、徳川への不満が、「尊王攘夷」として結びつく。
もともと異国との貿易を制限していたのは、徳川幕府である。いつしかそれが国是に変わっていたようだ。水戸光圀の教え、「水戸学」も日本に広がっていたことが大きく影響していた。幕末の徳川将軍慶喜は、この水戸藩の出身である。考えてみれば、奇妙なつながりがあると言えるだろう。
「維新」という言葉に、日本人は魅力を感じるようだ。中国の古典や日本の「日本書紀」などの古い文献にも見える。政治とは関わりない町民にとっても、「御一新」として歓迎されたと言う。だが、実態は、反徳川勢力による徳川幕府つぶしだったと言える。
*戊辰戦争の発端とは?
徳川将軍に、慶喜を推薦したのは孝明天皇だった。徳川家と宮中の関係はどこよりも良かったのだ。その天皇が1867年に崩御してしまう。ここから政治の流れは変わることになった。孝明天皇の子息を抱え込んだ反幕府側の公卿、岩倉具視。このことで幕府は朝敵となってしまう。
考えてみれば、不思議なことと言えるだろう。ただ当時、将軍慶喜はそれほどこれを重要視していなかったと見える。自分が政権から抜ければ、彼らは困るだろうと思っていたのだ。そのため、機先を制して、自ら大政奉還を言いだした。
困ったのは、薩摩長州側である。武力により徳川勢力を排除しようとしていたのだ。彼らは卑怯な手をつかい、徳川方への挑発を続ける。民家への火つけや盗賊などもうおこなったようだ。結果、鳥羽伏見で戦火が開かれる。
*このとき、英仏両国の出方は?
反徳川方である薩摩長州に英国がついた。徳川幕府についたのはフランスである。フランスに至っては、この時5名の将校が江戸にいたという。慶喜からの要請があれば、徳川軍と共に戦ったはず。だが、慶喜は戦うことをあっさりと諦める。
英国としても、日本を植民地にする気持ちはなかったと見える。薩摩との戦さで、メリットが少ないことがわかったようだ。それよりも交易により自国の利益をあげるのが一番と考えた。英国の考えはこうだ。「なるべく戊辰戦争を小さくおさめるのがイイ」と。このことが英国に多大な利益を与えるはず。
江戸無血開城は、官軍大将・西郷隆盛と、徳川方・勝安芳(海舟)の話合いで決まったとされる。大方はこの考えで良いようだ。だが、その裏で英国領事パークスも動いていた。西郷にたいし、なるべく江戸の町を壊さないようにと告げたとする。
*開国和親となった明治政府?
徳川に勝った薩摩長州の西国雄藩。明治政府の要職についたのは、下級武士だった。よくよく薩摩や長州を見てみると、藩主や家老たちは徳川に対する敵対意識は少なかったと見える。このため、明治政府の参与は、大久保や西郷や木戸らがなったと言える。
あれほど攘夷!攘夷と言ってきたはず。戊辰戦争が終わり、当然のこと納得しない輩がいたことは事実。また戦火がおさまれば生活が良くなるとも信じていた。彼ら明治政府に楯突くものは、粛清されている。闇に葬られた話しがそこにはあった。
*まとめ
戊辰戦争が始まった1868年1月、薩長軍は条約締結国にたいし、天皇を主権者とする新政府樹立、そして開国和親を宣言した。いわゆる「五箇条の御誓文」である。これにより日本は欧米諸国との仲間入りをすることとなった。
その内容はこうだ。
❶廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
❷ 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
❸ 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
❹ 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
❺ 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ
つまりは、日本はあなた方と同じ民主主義的な考えに基づき、国として交わっていきますよ!である。