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豊島氏の滅亡と伝説(6)

石神井城━━練馬区(後編)

 練馬区が全力を挙げて推す悲劇のヒロイン照姫。だが、この照姫伝説が生まれたのは意外に新しく、明治時代なのだという。

 明治二十九年[1896]、紀行作家の遅塚麗水によって書かれた小説「照日の松」が出版された。
 主人公の照日姫は豊島氏の姫ではなく、京の公卿の姫である。
 照日姫は事情があって東国に下る途中、豊島泰経の弟の泰明と知りあう。また、山吹の里で太田道灌と出会い、「七重八重花は咲けども」の歌を交わす。
 やがて姫は泰明の妻になるが、泰明は合戦で道灌に敗れて死んでしまう。
 石神井城の最期の戦で、城主泰経は切腹して池に入り自害。照日姫も入水して果てる。
 

 この照日姫がやがて照姫となり、照姫伝説に変化したのではないかという。(『豊島氏千年の憂鬱』難波江進[早見書林])
 池のほとりにある塚は三宝寺六世住職照日上人の墓という伝承もあり、遅塚麗水はそこから照日姫というキャラクター名を考え付いた。そして、城と運命を共にする姫の物語を創作したらしい。

 しかし、何から何まですべて麗水の創作なのだろうか。
 例えば、練馬城の回でも書いたが、練馬城が落城するとき、城主の娘が石神井川に身を投げた「姫が淵」の伝説。この伝説は小説が出るよりも前からあるのか無いのか。そもそも、三宝寺池に姫の入水伝説はなかったのだろうか。

 小説の中に道灌の有名な山吹の里のエピソードが出てくる。


山吹の里


 蓑を求めた道灌に対し、山吹の枝を差し出す女性が豊島一族ゆかりの者だったという話は、麗水がオリジナルではない。河竹黙阿弥作の「歌徳恵山吹うたのとくめぐみのやまぶき」という歌舞伎芝居が明治二十年[1887]新富座で初演されている。

 道灌に山吹を渡したおむらは実は豊島家の息女撫子姫だった。姫は道灌を父の仇と付け狙い斬りかかる。道灌は豊島氏の最期を語り、預かった観世音菩薩像を姫に渡すという物語。

 小谷圀次は「照日の松」の発表後に姫塚、殿塚の碑を建てている。小説に影響を受けたのか、それとも本当に泰経の後裔なのかは定かではない。照子姫、秋子姫ともに、豊島氏の系図には名が出てこない。(そもそも系図に女性の名が記されることが稀だった)
 塚自体は碑よりも前からあったが、豊島氏と関係があるかは疑わしい。

 「照日の松」には金の鞍(乗鞍)伝説は出てこない。これには元ネタとなったらしい伝説がある。
 南北朝時代に練馬将監善明しょうげんよしあきが戦で敵に追い詰められて自害した。すると彼の死んだ場所から水が湧き出して三宝寺池になった。そして善明の馬の鞍はその池の主となった。

 つまり、現在残る照姫伝説は、もっと古い時代の伝説や近代の小説などが混ぜ合わさってできたらしい。

 ところでこんな話もある。石神井公園駅前にあった和菓子屋の栞だ。

照姫最中の栞

その昔文明九年戦国時代の初め頃、関東では太田道灌と長尾景春が大きく対立していた。武蔵野の戦雲は急をつげ遂に景春は道灌との間に戦端を開いた。
だが道灌のすぐれた軍略により豊島一族は一たまりもなく敗れていく。
最後の砦として石神井城だけが残った。
石神井城主豊島勘解由左衛門尉泰経は先妻野路との間に照姫をもうけたが、景春の妹布佐を後妻として迎えていた。景春の子景光と照姫は誰も切り放す(ママ)ことが出来ない程お互いの愛によってしっかりと結ばれていた。この時照姫十八才であった。
泰経は取り入れも間近い実り豊かな麦の穂波を焼き払っては国人くにうどとして百姓に相すまぬと一計を案じる。
この時けなげにも照姫は死を決してその軍使を自分にやらせてくれと泰経に申し出たのである。そして道灌の陣営に侍女等ほんの数名を従えて乗り込んだのであります。
しかしこの計略も道灌に見破られ豊島一族はほんの数日にして武蔵野の露と消えて行ったのであります。(後略)

 泰経の先妻が野路で後妻が布佐だとか、照姫の婚約者が長尾景春の息子の景光だとか、照姫は十八歳だったとか、やけに人物関係が具体的なのだが、一体この話の出どころはどこなのだろうか。
 泰経の妻の名はもちろん、泰経が景春の妹と結婚していたか不明であるし、景春に景光というも息子がいたという記録もない。

 この話はさゝ家の主人のオリジナルストーリーなのか、それともどこかから聞いた話なのか、残念ながらさゝ家は店をたたんでしまったようだ。それどころか、石神井公園駅周辺は再開発されて、もはや店がどこにあったのかすら思い出せない。


 石神井川の南側に比丘尼塚、またの名を山の神と呼ばれる祠がある。一説に泰経の馬を供養した塚だという。この塚がよく祟るというのだが、今回久しぶりに行ってみて驚いた。
 真っ平らに整地され、玉砂利を敷いて中央に祠がぽつんと、やけに殺風景になってしまったのだ。


比丘尼塚

 こんもりと盛り上がった塚も、周りに茂った木々も何もない。よく見ると祠の後ろに以前あった古民家も無くなっているので、元々その家の屋敷神だったのだろう。

比丘尼塚の後ろにかつて古民家があった

 かつて芸術大学寮裏古墳と呼ばれていたが、古墳ではなかったということなのか。
 グーグル・ストリートビューの過去の画像を見ると2022年3月の時点で更地になっている。この頃に塚は壊されたのだろう。
 この塚に生えた木を伐ると死ぬとか、実際に近所で祟りで死んだ人がいたとか、塚の方向に防空壕を掘ったり悪戯をして死んだとか、枝を伐採するにも丁重にお祓いをしなくてはいけないとか、とにかく怖い神様なのだと書いてみるのがむなしいほど何にもない。草一本生えていない。

 昔撮った写真がこちら。(平成元年[1989])

比丘尼塚

 この時、塚の上にも上ってみたが、祟りの話は知っていたので、なんとなくおっかなびっくりだった記憶がある。(それでも興味の方が勝って登ってしまうのだが)


 こうして豊島氏は滅亡し、その所領の多くは太田道灌のものになった。その道灌も文明十八年[1486]七月二十六日、扇谷上杉氏の館で風呂から出たところを襲われて死んだ。道灌の力があまりにも強大になったので、主君定正からおそれられたのだろう。
 その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏は相争い扇谷家は滅び、山内家は長尾景虎(謙信)が継いで、命脈を保つ。
 一方乱の首謀者長尾景春は乱の終結後も生き延びている。

 さて、そんな豊島氏と太田氏はその後和解したようである。

平成五年[1993]四月十八日 読売新聞

 めでたく和解が成立したところでこの項はおしまい。今回の記事は大昔に取っておいた資料の大放出だった。いかがだっただろう。
 最後までお付き合い感謝します。
                               了


主要参考資料

関東武士研究叢書5「豊嶋氏の研究」  杉山博        名著出版
泰盈本「豊嶋氏系図」          平野實    練馬郷土史研究会
「豊嶋氏之研究」            平野實    練馬郷土史研究会
「豊嶋氏と清光寺」           平野實    練馬郷土史研究会
「豊嶋氏の遺跡を訪ねて」        平野實    練馬郷土史研究会
「豊島氏とその時代━━東京の中世を考える」
        峰岸純夫、小林一岳、黒田基樹編     新人物往来社
「東京戸板がえし」      荒俣宏、田中聡         評伝社
「太田道灌と長尾景春」       黒田基樹       戎光祥出版
「山内上杉氏と扇谷上杉氏」      木下聡       吉川l弘文館
鎌倉大草紙 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
照日松 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
石神井川流域の遺跡:練馬区公式ホームページ (city.nerima.tokyo.jp)
文化財説明板平塚城伝承地|東京都北区 (city.kita.tokyo.jp)

 




 

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