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豊島氏の滅亡と伝説(1)

平塚城━━北区

 豊島氏というと、関東、東京以外にお住いの人にはあまり知られていないかもしれない。歴史上有名な人物がいるという訳でもなく、かなりローカルな武士団で、そういう点で興味をもってこの記事を読んでくれる人は少ないのではないかとは思うのだが、まぁ、どこにでも歴史というものはあるわけで、もしよろしければお付き合いいただきたい。

 豊島氏は桓武平氏の一氏族で、平安末から南北朝時代にかけて栄えた。豊島氏の名は武蔵国豊島郡からきている。豊島とは東京湾にそそぐ河川の河口に多くの島があったことが名の由来らしい。
 豊島氏の支配地は現在の東京二十三区でいうと、北区、豊島区、板橋区、練馬区にあたる。

 その豊島氏が滅亡するのは文明八年[1476]に起こった長尾景春の乱だった。豊島氏は長尾景春に味方し、太田道灌と戦って滅ぼされたのである。
 滅亡期の豊島氏の主な城は三つあった。石神井城(練馬区)練馬城(練馬区)そして平塚城(北区)である。
 石神井城は豊島勘解由左衛門尉泰経、練馬城は泰経の弟の平右衛門尉泰明が城主だった。
  それでは平塚城の城主はというと、これがよくわかっていない。以前は泰明が城主という説が長く語られてきたが、近年の研究で泰明は練馬城主というのが有力とされる。平塚城には普段は城代でも置いていたのだろうか。
 ともかくこの城が豊島氏最期の拠点となったのである。

 平塚城はどこにあったのか、長年なぞだった。昔から平塚神社の付近ではないかと言われてきて、何度も発掘調査が行われてきたが、なかなかその遺構を発見できなかった。

平塚神社

 平塚神社は西ヶ原にある。飛鳥山から続く台地の上にあり、本郷通に面している。神社の背後は崖になっていて、その崖に沿って東北、北陸新幹線の線路が通っている。
 この辺りは武蔵野台地の東の縁で、そこから先は下町低地。低地は縄文時代は海だったところだ。平塚神社の近くには縄文時代の貝塚もあるし、東北新幹線の建設に伴う発掘調査でも縄文集落が見つかっている。(平塚神社のすぐ後ろのJR上中里駅から田端駅にかけて、中里遺跡がある)
 この崖は海が台地を侵食してできたのだろう。

国土地理院デジタル標高地形図より作成
平塚神社が武蔵野台地の縁にある
また飛鳥山から谷中を経て不忍池まで藍染川(暗渠)が流れる谷があり、
神社が細い島状の台地の上にあることが分かる

 また、平塚神社は律令時代の郡衙が置かれた場所に隣接していた。神社の西の滝野川公園の中に御殿前遺跡(豊島郡衙跡)の碑がある。さらに、国立印刷局東京工場の辺りに正倉院もあったという。豊島郡の中心地だったわけだ。

平塚神社周辺(google map)
平塚神社と七社神社の間が豊島郡衙と正倉院のあった場所
その間をかつて武蔵国府に通じる古道が通っていたという

  これだけいろいろ分かっているのに、中世の平塚城の場所はなかなか分かっていなかったのだが、漸く近年城の遺構とみられるものが発掘されたらしい。例えば平塚神社の前の本郷通を超えたところに切岸や柵跡、井戸などが見つかった。また、平塚神社の西にある七社神社近辺でも切岸やかがり火の跡が見つかっている。その他にも人骨や馬の骨、陶器類が発掘されている。
 やはり、平塚神社周辺に城があったのだ。

平塚神社

 平塚城は豊島近義が築城したと言われている。平安時代の末期だ。
 後三年の役[1083~87]の後に奥州からの帰路の途中、源義家、義光、義綱の三兄弟が平塚城に逗留して、近義がもてなしたのだという。義家は感謝のしるしに鎧を一領、行基作と伝わる御守十一面観音を豊島氏に下賜した。
 十一面観音像は平塚神社別当、光明院に安置されたというが、光明院は今は無い。
 そして、鎧の方は城の守りとして埋められ塚とした。その塚が平だったので平塚という地名はそこから来ているという。鎧を埋めたというのは伝説に過ぎないといわれているが、甲冑塚というのが平塚神社の社殿の後ろに今もある。
 今回塚を写真に収めようとしたのだが、残念!現在は社殿の後ろには行けなくなっている。

この奥に甲冑塚がある
残念ながら封鎖されている

 …ということで、その代わり私が平成元年[1989]に撮影した甲冑塚の写真をご覧あれ。(古い写真で色あせているのはご容赦。これでも色を補正してある)

甲冑塚
この背後は崖になっていて、新幹線の高架がすぐそばを通っている

 神社のわきは台地を下っていく切通のような坂になっていて、蝉坂という名がついている。

蝉坂
左側が神社
奥の方に新幹線の高架橋が見える

 ここを太田道灌が攻め上ったので、「攻め坂」が「蝉坂」になったのだという。

 蝉坂を渡ったところに、平塚山城官寺という寺がある。江戸時代、針医の山川城官貞久が、三代将軍家光の病気平癒を平塚神社に祈願して、無事回復した感謝のしるしとして、平塚神社や別当城官寺をポケットマネーで再興した。その話を聞いた家光は貞久の忠誠心に感激して褒美をとらせた。

城官寺
山門をくぐった途端、静寂に包まれた
内閣総理大臣時代の田中角栄氏の書
気のせいか見たことがある石像

 平塚神社には「紙本着色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」というものがあるらしい。その絵巻に源義家が豊島近義に鎧と十一面観音像を授けている様子が描かれているというが、残念ながら非公開。北区指定有形文化財に指定されている。

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