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「やめる」ことから、始める。〜2023年の抱負〜

明日から早朝ランニングを始めるぜ!と奮い立てば、雨が降る。
筋トレを始めてみたら、気合いが空回りして体を痛める。
読書は心身ともに余裕がないと、言葉や文字が頭に入ってこない。

そんなふうに適当な言い訳を見つけては、「始める」と決意したことを挫折してきた。

だけど、何か「やめる」ことは得意だし、好きだ。

勘違いして欲しくないのだが、根性や根気がいるものはぜっったい無理!
禁酒や禁煙、食生活の改善などは、まぁできない。

ボクにとって「やめる」という行為には、
「規制」というより「実験」的な意味合いがある。

「もしも、○○をやめたらどんな変化が起こるんだろう?」という興味本意で何かをやめてみる。

自分を材料にして、とりあえず実験をするのだ。
そして、そのほとんどは失敗する。

ちょっと、ここで先人たちの言葉をかりるんだけど、

「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」(トーマス・エジソン)
「成功を祝うのはいいが、もっと重要なのは失敗から学ぶことだ。」(ビル・ゲイツ)
「失敗の原因を素直に認識し、『これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった』というところまで心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。」(松下幸之助)

ということらしい。(要は、失敗も大切てことを言いたい!)

成功と失敗の関係性については、くどくどと講釈を垂れる気もないし、できる気もしないので、話を戻そう。

まずは、ボクがこれまでに「やめた」経験を3つほど。

①  団体行動・空気を読むのをやめた

「野球部って、大人数ですぐにつるむよな」と、高校時代よく遊んでいた友だちから言われたのがきっかけだった。小・中・高と12年間の学園ライフで団体行動の大切さをトコトン詰め込まれたし、野球ってチームスポーツだし、仕方ないじゃん!!とも思えるんだけど、友だちのその一言が心にグサッと刺さり、「団体行動=ダサい」という考えを持つようになった。

だから、大学に進学してすぐ、団体行動をやめた。

お昼ご飯を食べるのも一人(ポツン)。
買い物に行くのも一人(ポッツン)。
授業をサボるのも一人(ポッッツン)。

びっくりするくらい新しい友だちができなくなった。

けど、孤独感や寂しさを感じることは一切なかった。なんだったら、「一人でどこでも行けて、なんでもできるオレって、ちょっとかっこよくない?」と超ポジティブ変換をしていた。

多分、一人のくせにかなり堂々と、かなり偉そうに胸を張って行動していたと思う。

余談ですが…
大学1回生の頃だったか、2回生の頃だったか、そんなボクに対して「Do you have a friend?」と英会話の授業で質問してくる女の子がいた。別に知り合いというわけでもない、たまたま横に座った女の子からだ。どストレートに、とても失礼な質問をぶつけてくる非礼なヤツだ!と思いつつ、ちょっとだけその子を好きになった。

以上、甘くも、酸っぱくもない、恋のお話でした。

団体行動を意識的にやめたことで、なんとな〜くで人に付いていくことはなくなったし、周りの人と自分を比べることもなくなった。履修科目を選ぶときも、飲みの誘いも、サークル選びも、海外旅行も、誰かに誘われるたび、わざわざ&いちいち「これって、オレ、興味のあることなんだろうか?」と自問自答をするようになった。(フットサルに誘ってくれた友だちに対して「なんでお金払ってまで、体力を消耗しなあかんねん!!!!」と断ったこともある)

いわゆる「KY(空気読めない※死語)」と思われたことも多々あったハズ。

もし、何かしらの才能やスキルがあったのなら、その考えを今も持ち続けていたと思う。だけど、社会でそのマインドのまま生き続けるってとても難しい。

ビジネスの現場では、考えの違う他人(クライアント)と出会えば、自分の意見を主張するだけでなく、お互いが納得のいく着地点をしっかりと見つけないといけない。そして、共にその目標へ向かって進行していくスキルが求められる。折衝力に、プレゼン力に、読解力に、ヒアリング力に、巧みな言い回し……、人付き合いって、ホント大変。

まぁそんな社会人経験もあって、ちゃんと人の顔色を見ながら、人の声を聴きながら生きていかないとな。と改めて心を入れ替えた。

② 形容詞的評価をやめた

モノ・ヒト・コトを見て、「かわいい」とか、「ダサい」とか、「おしゃれ」とか、「かっこいい」とか……、形容詞的な言葉を使わないようにしていた時期がある。きっかけは何でもかんでも「かわいい!!!」の一言でまとめる人たちに、少し嫌気がさしていたから。

それに、「かわいい!!!」という言葉の裏側に、「この感覚、もちろんキミにもわかるよね!!!?」と少し強制的に共感を求められている気がしていたし、もっといろんな言葉を使ってちゃんと表現・評価しようよ!という個人的な主張もあった。要するに、「直感だけでしゃべんなや!」という生意気であり面倒臭い性分を持っていた。

だけど、編集者として制作会社で働いていると、この性分がすごく邪魔だし、良くないなと感じるようになった。

制作会社では、クライアントから「かわいい感じでお願いします」とか、「アカデミックな印象を持たせたい」みたいに超ざっくりとした発注を受けることが多い。その際に、「そんなアバウトな依頼だと困ります。もっと具体的に発注してください!」とはもちろん言えない(というより、言語化できていないところを紐解いて、最終的なアウトプットまで持っていくのが、制作会社・編集者の役割)。

アバウトなオーダーに対しては、いくつかサンプルを見せて、クライアントが思うかわいい像はどこにあるのか?を一緒に紐解いていくのだが、その「かわいい」のサンプルが全くなかった。そもそも、アンテナを張っていないからアイデアの引き出しも空っぽ……。(トホホ、な状況。)

そんなボクは、いろんなところにアンテナを張り巡らすきっかけになればと思い、「かわいい」、「おもしろい」、「かっこいい」という言葉をどんどん発していこう!と決めたワケ。それに、自分の価値観やカルチャーを整理することもできるしね。

③  関西弁をやめた

「その関西弁、誇張してない?」

10年くらい前に上京して、ボクが最初に抱いた違和感。それは、グチャグチャなお好み焼き(もんじゃ焼きのコト)でもエスカレーターに並ぶ位置でもなく、誇張した関西弁をしゃべる関西人が多いことだった。それこそ「でんがな・まんがな」くらいの勢いで。

「ここに関西人おりまっせ!」と主張したいのか?と思うほどに勢いよく、彼らは誇張した関西弁をしゃべっている。(「大阪のミナミ出身だったらわかるんよ。でも、あなた違うよね??」と時々、指摘してやりたくなる)。

一応、ボクも上京したての頃は、「絶対に関西弁は一生残したる!」と鼻息荒くしていた。

けど、けど、けどさぁ…、なんか思っていたのと違うんだ…。

T Vショーに多くの関西芸人が出演しているせいか、東京の人がよく「地方の人は方言があっていいよね。」とか言うせいか、こんな受け入れ態勢が整っていたら、逆にしゃべりたくない。

そう思って、関西弁を話すのを控えようと決意した。

でも、どうしたら関西弁を抑えることができるんやろう……?

よーく考えた。

そして、その答えとして出した手段が、全員に敬語で話すというもの。年齢・社歴に関わらず、基本的に全員に敬語を使う。

ホントに時々、ぽろっと関西弁が出てくることもあるけれど、それは相手との距離感が縮まった証拠だと勝手に解釈している。ボクにとって「敬語」とは、目上の人に対して使う言葉ではなく、距離が縮まっていない人に対して使う言葉と定義して生活している。

余談ですが…
東京の人がしゃべる言葉を「標準語」と定義づけされていますが、あれは「東京弁」です。ちゃんと方言ですよ。と言うようにしている。

話を戻しますが…、2023年の抱負

新年の抱負として、掲げたいことは……。

「人見知りをやめてみる」です!

そもそも、「あれ、オレって、人見知りかも?」と思い始めたのは、15年前くらい。

ある時期から急に、友だちの呼び方を「あだ名」にシフトチェンジできなくなったり(人をちゃん付けで呼ぶなんて、超苦手!!!)、初対面の人と話すときは緊張するし、自分が話し相手で申し訳ないと卑屈になったり、複数人での食事会に苦手意識を持つようになったり(これは団体行動をやめた影響かも)……。

人見知りの基準はよく知らんけど、とにかく「あれ、オレ人見知りじゃん」と思ったわけ。

この自分公認の「人見知り」認定が、最近はあまりよろしくない方向に働いている気がしている。仕事やプライベートで出会った人と会話が弾まなかったり、うまく意見できなかったときに「まぁ、人見知りだから仕方ない」という一言で、全てを片付けてしまう自分がいる。

反省しないといけない時もあるはずなのに。

だから、ボクが2023年の抱負として掲げる「人見知りをやめてみる」は、もっと積極的に人に話しかけよう!という意味でも、もっとフレンドリーな性格になろう!という意味でもなく、言い訳としての「まぁ、人見知りだから仕方ない」をやめてみようということ。

これまで対人関係でうまくいかなかったときは、その一言を切り札のように使ってきたけれど、その逃げ道を封じてみようと思う。

その結果、どんな変化が自分に現れるのか?という発見があれば尚良しだ。


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