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表現における配慮の必要を考える夜

久々の趣味投稿がこんなものですみません。
でもたぶんこういうことがnote向きなんだろなと思ったので書きます。

内容は題の通りですよ。
「表現における配慮の必要」
です。

高校生くらいから思ってたことがありました。
作中の同性愛表現って薄いなって。
演劇作品に限った話です。

それはずっと思ってました。
それで大学に入って精神障害、精神疾患、発達障害、そういうものの研究を初めて、何がとは言いませんが自分も当事者になって、遠いと思ってたそれらが近くに、自分の中で当然の認識に加わりました。
それで色んな作品を見てみると、なんか雑だなった思うことがあります。

それで、この前思って下書きまでした投稿がこちら。👇




作者、演者、座組が当事者かによってもらう意見が違うのはもちろんです。
でもそうであってもなくても配慮は何があっても必要だと思うんです。

YouTubeでも出るじゃないですか。
『この動画には自殺などの要素を含みます。』って。
『希死念慮がある方は増幅させる恐れがあります。』って。
『自分を守る行動をしてください。』って。

これって本当に有難い配慮です。
自傷衝動とか希死念慮とかそういうものが強まっているときに安易に見てしまったら、そういう動画が引き金になって衝動を通り越してしまうことも大いに考えられます。
衝動を超えて失われるなにかを守るために必要な配慮です。

そりゃソーシャルメディアと小劇場演劇とじゃレベルとか対象層が違うけど、大なり小なり人間何かしら抱えてるもんで、観ている人間にも該当することもあるもんで、何が引き金になるかもわかんないもんで。
だから自殺とか自傷とか差別とかマイノリティとか、そういうものを描くなら但し書きは要るってめっちゃ思うんです。
そういう状態にある人が覚悟を持って観るために。好きだから観てんのにそれで突き放されて傷ついたらねえ。

んまあそれも個人の勝手ですよ。どこまでいっても個人の都合、自己責任です。


でも。だけど。
そういうのを要素として入れる以上、ただ話を転がす要素にしてほしくないんです。
ちゃんと気遣ってほしいんです。
マイノリティ当事者が社会的に劣っているとは言いません。
でもそういった存在に対するスティグマや社会的排除は確かに存在していて、表現の場でさえそういうものが都合よく登場させられてしまったら、あまりになんというか。


でもこういう話をしてると表現の自由の侵害になるかもしれません。
何も知らず見てもらって、作品に没入して、その先の展開でマイノリティとか死を入れて傷ついて欲しいって思うこともありましょう。その気持ちもわかります。
作中の人物の死の描写が「死んだよ」だけで済むから配慮なんか要らんだろうと思う人もいるでしょう。
それもそうですよ。
そこは任されることでしょうけど、いやあでも、できるだけ一番弱い立場の人間の側に立って配慮できる人間が多い世界になればいいなって思います。


色々言ったけどそんだけ。
配慮してほしい。
私も創作者として、表現者として目いっぱい配慮します。
ただの世界へのお願い。





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