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「娯楽」というモルヒネを打ちながら


今や、趣味はとても重視されているように思う。プライベートの充実とか、推し活とか。
「楽しいことがあるのだから、人生には生きる価値がある(死ぬなんて間違っている)」が正論だ。

それでも、思う。
娯楽は人生の目的や生き甲斐ではなく、生きる痛みを麻痺させるモルヒネではないのか、と。


◇「娯楽」というモルヒネ

「Cry of Fear」というホラーゲームがある。交通事故に遭った主人公が悪夢のような街を彷徨う、サイレントヒル系のアドベンチャーゲームだ。

作中では敵から受けたダメージを回復できるのだが、回復方法が「拾ったモルヒネを打つ」なのだ。おもむろに取り出した注射器を腕に突き立て、握り込んだ親指を押し込む。その様子は「ダメージを癒し、傷を回復させる」という健全な行いとは違い、現実の苦痛を誤魔化し這いずり回る、ジャンキーの姿でしかなかった。

10年ほど前、このゲームの実況動画を見ていて、その光景が記憶に残っている。

あの光景が、人生の生きる苦痛に対して娯楽を打ち込み、「自分はまだ大丈夫、大丈夫…」と言い聞かせている姿と重なってみえる、「人生の楽しみ」とやらの役割に思えてしまうのだ。


ひねた考えだなぁ、と思う。
なぜ素直に「趣味が楽しいから生きている価値がある」と言えないのか。こんな考えだからいけないのだ、と。
しかし、全く同じことを言っている他人を見たこともある。

人間は生きている苦しみを一時忘れるために必死に楽しみを探してるんですよね…?

みやざき明日香
「性別X」第26話-反出生主義の話-

同じこと考えている人いる!やっぱそう思うよね?!と当時驚いたのを覚えている。

ネガティヴな思想は世間では口に出すと面倒なやつ扱いだ。しかし、同じことを考えている人間がいると思うと肩の荷が下りるのだから、思考の発信には意味があると感じる。(私の記事も同じ役割があれば良いなと思う)



◇これが趣味ですと胸張って言えないよ

根本的な解決にもならないモルヒネを日々探して摂取して、自分のメンタルや生活を支えることは虚しかった。他人に「趣味や楽しみがあります!」と表明することを暗に求められることも。

だから、のめり込めなかった。自分の趣味や娯楽といった、社会的コミットのない自分の楽しみのためだけの行為をずっと大事にできなかった。

私にとって、達成感には娯楽に似た楽しみがあって、達成するもの自体はなんでも良かったから、学業とか仕事とか、社会的立場に役立つものばかりに自分の時間を使ってきた。


でも、自分のクソみたいな人生をマシにしたいなら、それは間違っているらしい。ここ数年、自分の人生をマシにしたくて、救われたくて、心理学や毒親問題や精神病についてたくさん本を読んできた。
その結果、自分を救いたいのなら、己のひねた考えのままにやさぐれていてもしょうがないのだと、少しづつ受け入れられるようになってきた。
というか、諦めがついてきた。

「娯楽はモルヒネだろう」という考えが間違っているとは考えてない。だって、これは「生き甲斐をもって人生を楽しむ」いう真っ当な思想に対する言葉遊びみたいなもので、そこにある娯楽の効能は変わらないと思うからだ。
人生の謳歌のためだろうが、モルヒネ代わりだろうが、それで人生やっていけるなら同じことだ。

つまり、楽しんでしまった方がいい。虚しさや罪悪感から己を引き離して、娯楽を楽しいと思える自分を作り、守るべきなのだ。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々、である。


どうせ死ぬまでは生きていなくてはいけない。
真っ当だろうが捻くれてようが、生きてる間をマシにするために今日明日するべきことは変わらない。

モルヒネでも良いのだ、自分に必要なものだと言って、その楽しみを享受できるのなら。


中毒なだけかもしれない

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