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私は写真に写るのが嫌い

私は写真に写るのが嫌いだ。旅行に行っても自分と観光名所を一緒には撮らないし、友達と遊びに行ってもできる限り写真を撮られたくない。(気心知れた相手なら、写真は好きじゃないと断る)

自撮りが普及し、人と会った記念に写真を撮る人も多い中、人と関わるのに不便な好き嫌いだと思う。
それというのも、嫌いなのはスナップ写真であり、証明写真などは平気なのだ。証明写真は良くも悪くもキッチリ型にはめて撮っており、自分らしくはないので比較的平気である。

人といる時に「自撮りしよ!」と言われて断るなど、「貴方と写真など撮りたくない」という意思表示に取られかねないので、嫌でも拒否しにくいものだと思う。


◇私が写真を嫌いな理由

さて、写真嫌いといえば、理由としては「自分の顔が嫌いだから」がポピュラーではなかろうか。
私が写真に写りたくないと意識的に思うようになったのは10年前くらいからだが、その理由をたびたび考えては、顔が嫌いだからとは少し違うな…と感じていた。

自分なりに結論づけた、私が写真に写るのが嫌いな理由は
①自分がそこに存在する客観的証拠だから

そして最近増えた理由として、
②顔が母親に似てるから
がある。


①は自分で書いておいて厨二病のようだと思うが、まぁ聞いて欲しい。

人生とはFPSみたいなもので、常に自分視点なのだ。だから、自分の実在などは意識しているようで、他者の存在ほど明確でないと思う。
それが写真に撮られると(人と一緒に写ってしまうと尚のこと)、自分が現実に存在していることを実感させられるのだ。自分が認知している他者と全く同じく、そこに存在して生きて他人の記憶や認知に触れている事実を突きつけられる。

全くもって勘弁してほしい。そんな事実は極力忘れて、遠くに目を逸らして生きていたい。

私には子供の頃から空想癖があって、その場にいても頭の中では全く別の物語の中に身を置いていたりするのだが、これも写真に写るのが嫌なように、現実に自分が存在することを拒否したいからこそ付いた癖なのかも知れない。

また、証明写真が平気なのも、あれは自分の普段の姿を写したものでもなく、また他人と一緒に写るものでもないことが理由なんじゃないだろうか。


二つ目の「②自分の顔が母親に似てるから」は、最近気がついた事である。
友人といる時に写真に写るのが嫌いだという話をしたら、「最近の加工アプリは綺麗に撮ってくれるよ!」と私を写真に撮った。
(自分の顔がブスだから嫌だ、とは違うんだよな…)と思いつつ、被写体を務めて、その写真を見た。
写真に写った目を細め笑う自分の顔を見て、瞬間、母を思い出した。そして、「気持ちが悪い」と思った。
そんなことを思ったのは初めてだった。しかし、確かにそう感じた。

私は機能不全家族育ちで、歳を取るごとにその事実に気がつき、特に母のことが受け付けられなくなってきた。そのタイミングだからこそ、そう思ったのかもしれない。

なので、二つ目の理由については、「写真が嫌いな理由に気がついた」というよりも、「写真が嫌いな理由が増えてしまった」が正解だろう。

血がつながらない親子(養子など)において、それまでの親子関係が良好であっても血の関係のなさに悩む話を見聞きする。もちろん当事者からすれば深刻で大切な問題だろう。特に日本では血の繋がりを家族の重要事項とする風潮が強いし。

しかし、血の繋がりがあっても不健全な親子関係を持つ私のような人間からすると、「血の繋がりがあるせいで呪いが増えてるじゃねーか」である。ため息の出る現実である。
(重ねて言うが、当事者の抱える悩みを大きくも小さくもするつもりはない。)

◇他の人はどう感じているんだろう

写真が嫌い、という話題を見聞きすると「自分の顔が嫌い/ブスで辛い」という話が出てきやすいので、そうじゃない理由もあるんじゃないのか、と思ってこの話を書いてみた。

私が写真を嫌いな理由は外見の美醜ではないが、自己肯定感の在り方とは共通点がありそうである。自分のありのままの存在を認めたくない、という点においては同じだろう。

最初に「人と関わるのに不便な感覚だ」と書いたが、写真が嫌いだと思う人自体は珍しくないと思っている。同じ感覚を持つ人がいるなら、その人が嫌だと思う理由も聞いてみたい。

存外、それぞれに違った理由があるような気がするから。

気が抜けてるの

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