ただの大学生が教育について考えてみる
今回は教育を学ぶ学生として少しマジメに”教育”について書こうかなと思います。
これを書くきっかけとプレパについて
まずはじめに何故いまこのタイミングで教育についてちゃんと書こうと思ったかのその裏側?についてです。
つい先日に「プレーパーク」という場所に行って1日かけてじっくりとその場の様子を見てきました。
そこのプレパは常設型だったので、子どもたちもよく来る近所の子たちから少し遠いけど休みの日にやってくるご家族まで様々でした。また、遊具なども手の込んだ常設ならではの面白そうなものばかりでした。
そんなプレパを見たことで改めて”教育”について考え、いい意味でかき乱されたのでそれを書き残そうと思いました。
【補足】
「プレーパーク」についてよく知らない方も多いと思うので少し説明します。(ご存じの方は飛ばしてください)
プレーパーク(プレパ)は冒険の遊び場とも呼ばれ、子どもたちが思う存分に気の向くままに遊ぶことができる、そんな場所をつくる活動です。
ここで私の解釈が混じってしまうのも良くないので、日本冒険遊び場づくり協会から説明をお借りします。
とくに私が好きな理念・考え方の1つとして「自分の責任で自由に遊ぶ」というものがあります。自己責任で…と言うと子どもたちを突き放すようにも聞こえるかもしれませんが、むしろ私は子どもたちの可能性を最大限に信じなさいという大人への戒めだと思っています。
ちなみに私はこのプレパというものを大学1年生のときに同期の友人から教えてもらい、実際に地域のプレパ(これは非常設)を見に行ってからちょこちょことお手伝いさせてもらいながら関わっています。
プレパに行って思ったこと
私はいま住んでいる地域のプレパにはちょこちょこと大学1年のころからお手伝いを兼ねて行かせてもらっています。なので、プレパとは何ぞやということは前々から知っています。
ですが、今回は常設で地域としての雰囲気も関わる人も本場のプレパを始めて実際に見させてもらいました。
ひとことで感想を言うとすれば
— ふつうだ。
です。
さすがにこのひとことだと短すぎて誤解されかねないのでちゃんと言葉で説明します笑
プレパで遊ぶ子どもたちは、ふつうに遊んで、けんかして、叫んで、笑って、ちょっかい出して、また遊んで、帰っていく・・・
そういうなんの変哲のないただのふつうの子どもたちの姿でした。
遊びとしては、ツリーハウスに登ったり、追いかけっこ?みたいなことをしたり、木工工作やったり、歌うたったり、コマやったり、焚火でよくわからない実験したり、雨が降ったら遊具の下でなにやらしゃべったり、晴れたらまた焚火をしたり、ロープで遊んだり・・・
やっていることは「ただ遊ぶこと」それだけです。
そんな様子を見て、私は「ただ遊ぶこと」が子どもたちの自発に支えられて、何の違和感もなく成り立っているその場に感動しました。
たしかに、ツリーハウスや穴を深くまで掘ったり、自由に焚火をやれるのは常設型のプレパだからできることかもしれません。でも、そうやって遊んでいる子どもの姿はごく自然な雰囲気でした。きっとここのプレパでよく遊んでいるんだろうと思いました。
プレパについて語られるときによく出る話題の1つとして、現代の子どもたちは忙しくて常に何かに追われたり、何かを競い合う中で過ごしていて自由に遊びが失われているのではないかと言われます。子どもたちの「遊びたい」「やりたい」その気持ちが具現化するという機会が制限されることも多いです。
でも、プレパでは日常として「遊びたい」「やりたい」が最大に尊重されて、それが実現されていく。そういう営みが飛び交って子ども同士が交わっているということの意味の大きさを改めて感じました。
自分の”教育観”
今の教育について感じること
今の教育では探究的な学びや主体的な学びが積極的に行われようとしています。ただ、個人的に1つ懸念していることとして、大人(教師)の手のひらの上で子どもたちが探究させられる状態になることは間違っていると私はハッキリと思っています。
そのような教師の思惑やねらいに沿った探究・主体性とは真の探求ではなく、どこか空に浮いているような状態になるのではないでしょうか。
本来の探求・主体性は、もっとごちゃごちゃしていて、不明瞭で、不完全で、脆さがある。でも、力強くて、まっすぐで、勢いがある。
現状の教育では、ごちゃごちゃしていることや不明瞭であることと相性が悪いように感じます。
・きちんと学習事項を習った通りに覚える
・習ったことはテストでしっかり正答できる
・自分の考えを論理的に伝える
・将来のために目的をもって努力する ・・・etc
もちろん、これらのことは大切なことではあります。ただ、それだけを追求し続けると果たして子どもたちのためになるのか?明瞭で、簡潔で一貫していて、統一的な成果を子どもたちに求めていくことは本当に主体的な子どもたちを育てることに寄与するのか?そして、そのような学校は子どもたちを受け入れて受け止める場として機能するのか?
私自身としては、教育はもっとごちゃごちゃしていて不完全であることと向き合い、受け止めていくものだと考えています。
いきなり規模の大きい話を出しますが、そもそも人間ってごちゃごちゃしていて不完全なものだと思いませんか?笑
一貫なんかしてなくて、間違えたり、失敗したり、その時々にいろんなことを感じながら生きている。明快で論理的で統一的な存在とはいかない。
そういうままならないところもあったりはするけれど、日常を生きている。
そういう中で、少しでも日常を面白がり、楽しんでいこうとする態度、それが探究・主体性だと思ったりもします。
また、ごちゃごちゃや不完全さを受け入れていくことができない、その余白がないと、教育という土俵にいられる子どもたちも限定されていくように思います。
不登校、障害、ヤングケアラー・・・そういう子どもたちはネガティブな意味での不完全な存在なのではなく、1人の人間として様々な側面をもったごちゃごちゃしている存在として偶々、いまの学校・教育というものと合わない側面があるというだけだと思います。そして、それはなにも悪いことではない。
むしろ、課題があるのは教育の方だと思っています。ごちゃごちゃや不完全さを受け止めることができず、それ故に今の学校に適合できる子どもたちしか受け入れることができない学校に課題がある。
本来、子どもたちは大人から見れば意味不明でカオスな存在です。
なぜそうなる?なんでそんなことをする?どうしてそんなことしようとした?・・・そういう”わからなさ”があります。大人目線で言えば、それは”未熟”であり”不完全”かもしれません。
でも、その中で主体性をもって生きようとするからたくさんのことを学び、経験し、曲がりくねった道を少しずつ歩きながら成長していく。それを最大限に守り、大切にして、後押ししていくことが教育だと考えています。
じゃあ、自分はどうしたいのか?
と、ここまで今の教育について感じる私の問題意識を書きましたが、じゃあ自分はそれに対してどんな教育、どう子どもと関わりたいのか?
― 子ども1人1人の日常ともっているストーリーを尊重したい。
日常は、その子にとっての当たり前、自然ということです。
たとえば発達障害のある子たちからすれば、それがある自分として生きていることは日常です。発達障害のない人からすれば、それは非日常的なことに見えるかもしれませんが本人は発達障害のある自分が日常であって、その中で感じること、経験するものがあります。
別に障害をピックアップしなくても子どもたちそれぞれには、それぞれの日常があります。教育ではそれを尊重したいです。
さきほどのプレパでの話しでも遊ぶことが日常の当然なものになっていることを書きましたが、子どもたちにとって遊ぶことを日常そのものです。それを否定するかのように勉強することを強制して、将来にとって意味のあることをさせてもそれは非日常になるだけです。
日常という日々の営みの中でその子が見ている、見えている世界を大切にして感じていること、考えていること、抱えていることに目を向けて1つ1つを大切にしていくことをしたい。
そして、そういう日常を重ねることがストーリーとして連なっていくと思います。見ているもの、体験していることが同じでもそれぞれに感じること、思うことは異なっていてストーリーがあります。その子がそれまでの日々の積み重ねの先にそこでの考えが現れてくると思います。
そういうストーリーを大切に解釈して、理解しようとする。それによって、その子の言葉や行動が見えてくるのかなって思います。
そして、そのストーリーはごちゃごちゃしていてわかりにくいものだと思います。そう簡単に理解することなんてできない。だって、その子の人生そのものの連なりがあって、その子の膨大な経験と思考が土台にあるのだから。
遊びの姿ひとつとっても、こどもたちはよくわからないことをします。でも、その子のそこまでの過程に目を向けてみる、その子の背景に想いを寄せてみると、あぁそういうことね。それをしたいってことね。とどこかで納得することもある気がします。
ストーリーを簡単に理解してしまうのではなく、ゆっくり丁寧に向き合っていくべきなんだろうと思います。
まとめ
またかなり長いものになってしまいました。
でも、十分に自分の中にあるものを言葉にできたとも思えません。
そのあたりのモヤモヤ感は今後の考えるテーマとして残しておきます。
いまあるこの感情を残すために勢いのまま書いたせいで長くなり、ごちゃごちゃしていてうねうねしている。これもまた大事ということにします笑
今回もお読みいただきありがとうございました。