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しゃべり過ぎる作家たちのMBTI(2)―2 FPは近づく、TPは遠ざかる

もう一月あまり前になるが、正月休みに泉鏡花の「山海評判記(初稿)*」を読んでみた。鏡花の最後の長編ということで、書かれたのは昭和初期、関東大震災の記憶が未だ生々しいころである。話のあちこちに「震災」がある中で、主な舞台は能登半島。別に何の符合もないが、珠洲、輪島あたりの被災地のニュースを見ると、手に取るのが何だか怖くなった。

そういう中で、という訳ではないが、この長編を読み通すのは結構辛かった。話がつまらない、という訳ではない。が、読み返し読み返ししても粗筋がつかめず、なかなか先に進めない。もともとが新聞連載で、「初稿」というのはその形のまま、ということなのだろう。一つ一つの回にちゃんと見せ場があって、特に怖いとか気味悪い場面は読者を戦慄させる。幽霊らしい声が廊下の隅から何となく聞こえてくるとか、生魚が足に乗っかるとか。絶叫するとか助けを呼ぶ、というほどではないが、一瞬息が止まって声を出そうとしても出ない、そのあたりの書き方は素晴らしい(やはりSですね)。
が、それぞれの場面で出てくる小道具や、主役級の数人以外の人物が、非常に印象的であるにもかかわらず、後の展開のなかでの役割がはっきりしない、特に2つめあたりの章で出てくる美女の幽霊?は全体を貫く要の存在であろう、と期待させるのだが、その章が終わってからストーリーを動かす役割を負うこともなく。「あれは何だったのだろう?」と最後まで疑問を持たせたまま。読者としては、読み終わった後で、なぜこんな風に話が拡散したままなのかが分からない。

多分以前に読んだ全集版では、それなりに最後はまとまりがつくように手が入っていて、美女の幽霊?は北陸地方の養蚕の守り神である白神様と関係づけられていたように思う。ただ、鏡花で名作と呼ばれるものは世間でいうとおり戯曲や中短編で、場面で勝負!の「P」、最初に一応のプロットを立てて、ストーリーやキャラの言動に矛盾がないように組み立てていくのは苦手なのだろう、と今回の経験で確認した。

「T/F」については、やはり「F」かなあ。登場人物の書き方に作者の好悪がはっきり出ていて、情感が豊かなセリフには作者の思い入れの深さがはっきり見えるところを見ると。鏡花が感情移入する(そして読者に感情移入させたい)人物のパターンはだいたい決まっていて、男性であれば、主役は秀才あるいは芸に優れた20-30代。どこか翳りがあり、その翳りを理解してくれるヒロインに一途な恋心を捧げる。女性であれば苦しい境遇を潜り抜けて控えめながら心の奥には激しい情熱がある地味目の美人、といったところ。そこに純真な少年少女、物分かりの良い粋なお姐さん、一本気な職人などがサポート役として絡む。

鏡花の「T/F」判断の決め手になったのは、これも典型的な「P」型である故橋本治氏との比較から。橋本氏ははっきりと「T」である。同氏の小説を数冊(しかも初期の代表作「桃尻娘」シリーズは未読)しか読んでいなくておこがましいが。明治後期の大ベストセラー「金色夜叉」を下敷きにした「黄金夜会**」を例にとると、登場人物に善悪や賢愚の区別はあるのだが、作者が誰かに肩入れして、読者がおのずと感情移入するように持って行く、というところは見られない。心情の描き方はどの人物でも平等、というか脇役のほうが丁寧なときもある。主要人物の特徴は、時に基本設定と外れて理屈をこねだすこと。「金色夜叉」の主人公は感情の起伏が激しい衝動的な人間に描かれており、「黄金夜会」でも衝動的な行動はそのままながら、行動原理が感情であるとは思えない。なぜ大学を辞めたか、と人に聞かれたときは、とりあえず「親が死んだから(実は主人公の両親は彼がまだ幼いころに亡くなっており、引き取られた家の娘と恋愛・婚約したが裏切られたため)」と言っているが、それで人が納得してしまうのはなぜか、親が死んだから大学を辞めなければならないというものでもないだろう、と考え込むとか(「親の借金を払ったら一文無しになった」といったその先を聞きたいけれど、詮索するのはかわいそうだ、という相手の思いやりには気づかずに)。また、最後に近くなって起業するときにスポンサーになった女性との関係はビジネスライクに徹する。この女性は主人公に暗黙ながら情事を持ちかけていて、F型ならばそれにうっかり応えてしまうか表面は知らない振りでも大いに悩むところだが、そのあたりの感情の動きがあるようには書かれていない。

一方で、筆者が読んだ限り、橋本氏の小説は、ディテールは素晴らしいのにそれがストーリーの流れと合っていない点、いかにも作者「P」である。「黄金夜会」は、元のストーリーに沿っているから比較的まとまりのよい方なのだが、これにも時々唐突に本筋とまるで関係のないエピソードが出て、何かの伏線か、と思っていると前後の脈絡がないままに消えてしまう。主人公は、大学を辞めてしまったということになっている。が、実は単位取得は出来ていて、卒業証書を取りに来なかっただけ、ということが友人間の会話で明らかになる。このエピソードは後に主人公の境遇に変化をもたらしそうに見えるのだが、最後まで使われず、主人公は大学中退と本人も周囲も思い込んだままで話が進んでいく、など。

個人的には、氏の作品は評論のほうが面白い。特に源氏物語を解説して、ある部分の短い文に反映されている当時の時代的背景を解き明かしつつ登場人物の価値観や心情を推し量る「源氏供養***」は愛読書の一つである。この「背景の探索の上手さ」は「N」でしょう。E/Iは迷うところだが、論題の立て方が挑発的(「三島由紀夫****とはなにものだったのか」中で、「同性愛を書かない作家」という章を立て、三島由紀夫はゲイ趣味があった、という通説への反論か?と思わせるとか)で論争を好みそうだから「E」としよう。「ENTP(討論者)」がよさそうに思う。

さて、もう一人「TP」型の典型を挙げておきたい。1981年のカドカワ映画「スローなブギにしてくれ」の原作者である片岡義男氏である。このヒットを受けてか、1980年代前半には氏の作品が多数角川文庫で出ていたように思う。
筆者はそのころはまだ映画にも小説にも触れていない。大勢に流されることを嫌う中二病の盛りで、流行ものは避けて通るべきと決めつけていた。

が、数年前から氏の近年の作品と出会い、小説ともエッセイともつかないその独特の語り方に感服している。文房具とかcoffeeとか、モノに対するこだわりが強く、気に入ったモノについては、その詳細を細かに描写する。がベタつかないのですよね。鏡花のようにモノに直接触れているように感じ、良きにつけ悪しきにつけ、その質感が激しい感情を呼び起こす、ということはない。他人のアルバムをめくるように、その時々のエピソードは十分に味わいつつ、気分は冷めている。ヒトに対しても態度は同じ。内面に立ち入らず、立ち居振る舞いですべてを語らせるその筆力には感服するばかりである。この距離感、絶妙です。まさに職人技(ということはISTPですね)。

氏のフォトつきエッセイ集「僕は珈琲*****」を読んでいたら、自分でもcoffeeの写真を撮りたくなった。

筆者は「最後の晩餐」は?と聞かれたらcoffeeと答えます。エスプレッソトリプルに砂糖とミルクをスプーンが立ちそうなほど入れて。

*国書刊行館より2014年に発売
**2017年から2018年に読売新聞に連載。
***中公文庫、1996年
****新潮文庫、2005年
*****光文社、2023年

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