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シェアハウスを通してみるマインドフルネス

昨年の2月末よりシェアハウスにいる
今日でちょうど一年となる
一年前の今日、ここへ来たわけだ。
早かったのか遅かったのか・・・この1年

日本でシェアハウスはここで3件目
1件目は帰国の際、どこを居住にして良いのかまだ未定だった
という理由で・・・1年間。
2件目は一昨年の年末〜昨年の2月ー数ヶ月で退去
そして、今の大型シェアハウス

人と生活するのには
アメリカでの経験があるので
そう負担にはならないと感じていたが・・・
う〜ん。。。考えてみれば アメリカでは
ルームシェア、ハウスシェアと
常に誰かと一緒に住んでいたなぁ〜・・・。
一人暮らしの方が少なかったかも
そう苦ではなかった

しか〜し、ここは日本
当たり前だが日本人が多い

よぉ〜く自分を観察してみると
これが、かなりストレスになっているようだ

私の心の叫びを
私の体が私に教えてくれているのかもしれない

『脳腸相関』
腸さんが芳しくないのはまだまだ続行中・・・・

しかし、そう考えたくない私もいます。

とは言え、

文化の違い・生活習慣の違い
逆に日本人だからこそ
日本人との間で見えてくるものが
私には多い様子
プラス、ジェネレーションギャップも
あるであろう・・・少なからず。
多分という確実に
私が一番年上で
私の年齢は私一人であろう

私が彼らの立場であったら
『えっ?なんでこの人がここに?』
と感じるであろう
彼らの目には私という人間が
不気味に写っているのかもしれない

私がそう感じるのであって
本来、彼らがどう思って
感じているかは誰にもわからぬことであるが・・・

そう、わかるわけないのだから
どうでもいいはずなのだが・・・

心理学に携わっていることもあり
あ〜でもない、こ〜でもないと
分析し始めてしまうのが私である

どこかで見た 楽に生きられる原則↓

他人に期待・依存しない
過去への執着心
強すぎる自責

これらから解き放たれる

まさにマインドフルネス

『今ここ』
今この瞬間を生きていく
評価や判断をせずに
良い部分も
できない部分も
そのままの自分を
受け入れていく

自己受容ができてくると
余裕ができ
他人へ対しても
許容範囲が広がる

マインドフルネスと出会ったのは
多分、2021年位だと思うが
今でも自分のできる範囲で
毎日、マインドフルネス瞑想・ヨガを続けている

大昔、瞑想やヨガをやってみても
すぐに雑念や睡魔が襲ってきて
一向に集中できていなかった自分がいたので
マインドフルネスと初めて出会った時にも
「まあ同じものであろう・・・」と
気軽に初めていった

そうこうしているうちに
だんだんと習慣化され
蓄積されていったのであろう

今でも継続中であるが
マインドフルネスの考えがなかったら
「多分、ここで住み続けていないだろうな」と感じている

毎日とんでもないことが
起こる起こる
(でも、それは私がそう感じるのであって
他の人、一人一人何も感じない
もしくは、それが当たり前と
感じている人もいる者もいるであろう・・・)


そう、そんなもん

昔の私だったら
悲鳴をあげていたであろう

他人への期待が大きくなると
とことん失望感大きくなるでしょう・・・
それが蓄積されていくと
怒りに変わり、最悪の場合は
相手を罵るような人間破壊に行き着いて
結局は一番自分が傷つくことになってしまうのかもしれません

先ほど申し上げたように
ここでの生活もそれはそれは
一言では言えないくらい
とんでもないことがたくさんありますが・・・
話し始めたら終わりがなく
キリがないので
ちょっとここでは割愛させていただきます

手っ取り早く言ってみると
昔の私だったら
多分、自分が負荷に感じることをしている相手に
「〜していただけませんか」とか
何かしらお願いをしていたかもしれません。

でも、今は、それすらも躊躇っている私がいます。

これは我慢ではありません。

例えば、私が彼らの言動で「とほほ・・・」と感じる時に
ちょっと考えてみることがあります。
それは・・・
これは、私に何を教えてくれているのだろうか。
私が彼らくらいの頃、周りを気にせずに行動していたことが、
今、彼らによって仕返しをされているのだろうか。
彼らも大人になったら、同じような体験をするのだろうか。

ここに来て、よく思うことは、
自分が嫌だなぁと思うこと
「こうなってくれたらいいな」と思う
俗にいう『他人への期待』

先程、書いたように、相手に対して
自分の思いを自分の口から発すると、
それが結局は、また自分に返ってきて
また言わなければいけない状況が自分に落ちてくるように思え、
発するのを控えています。

例えば、私ではなく、
住民の中には、自分がされて嫌なことを
LINEで「〜しないでください。やめてください」等の
メッセージが全体メールに流れてくるのを見かけます。

ですが
結局、再度、同じことを言わなくてはいけなくなっているのです。
一度あることは2度、3度ある とはうまく言ったモノです。

あとは、どのようにいうかもポイントだと思いますが・・・

昔の私なら・・・すぐに相手に言っていただろう。
少なくともアメリカだと英語だったので
気楽に言えていたと思います
(言わないとわからない文化ということもある)

お隣さんのドアの閉め方がひどい場合・・・
「すみません、もう少しドアをゆっくり閉めてもらえませんか」とか・・・

しかし・・今や日本。
これすらも躊躇ってしまうのは・・・
お隣さん同士、やっぱり嫌な気分で過ごしたくないからと言うのもある。
言われた本人は、その場では、例えば「あっ、すみません」ってことに
なるかもしれません。(社交辞令として・・・嘘であっても)

しかし、毎日の日々の生活の中で、例えば、ドアノブを抑えながら、ドアを閉めたとしても、本人に、それをしたい気持ちがなければ、最初の1、2回だけはやってみたとしても、その後は「なんでこんなめんどくさいことを・・・ドアの作りが悪いんだから、しょうがないじゃん。私のせいじゃないじゃん」とか、結局、私への敵対心に変わってしまうかもしれません。

考えてみれば、子供の頃、実家で父親がやんわりと私に「もう少し、音を立てないで歩いて欲しい・・響くから」と言ったことがあったが、
正直、私は言われて良い気はしなかった。
自分の中では「えっ?そんなにうるさい?あ〜めんどくさい。お父さん、気にしすぎなんだよ〜」と思い、相手を責めてしまった気持ちになった。

人は自分でも気づかないうちに、他人を傷つけていると言うのは
なるほど・・・と思う。

だから、相手ではなく、自分が調整していくことしかありません。
怒りを見せない人は、ただ他人に期待しない人。ドライな人。

これが、なんとなくマインドフルネスを習慣化してきてから
徐々にできてきているように感じている。
以前は、短気は損気と分かっていても、怒りを爆発してしまって、
その後は必ず、後悔と自己嫌悪の塊であった。

怒りの感情で相手を克服しようとするのではなく、
例えば、アイメッセージ・・時と場合、相手にもよるが

例えば、「〜してくれると嬉しんだけど・・・。助かるんだけど・・・」
と言う表現も、その相手次第。
その相手がどう受け取って感じてくれるかにもよる。
そう言われても「あっ、そう。嬉しいんだね。助かるんだね。でも、それはあなたがそう感じるだけであって、私には関係ない」と思う・感じる人だっていると言うこと。
だから、必ずしもアイメッセージが互いのコミュニケーションにおいて
ベストだとは断言するつもりはない。

これは『ひねくれた』と捉えられるかもしれませんが・・・
アイメッセージで伝えてくる人は「自分がそう言う気持ちでいたいから、自分がしてもらいたいようにこちらにして欲しいんだ」と、そう捉えられないこともない。

シェアハウスのことを取り上げましたが、
ここからは
大学講師としての私・・・ 

最近の私は、同僚相手の言動やメールでの言葉・表現に対して、
偉そうな人、上から目線の人、馴れ馴れしい口調に
かなり敏感になっているかもしれません。
若しくは、注目していると言ったほうが良いかもしれません。

そして、私自身が敢えて嫌なやつになるように心がけていると言っても
過言ではないかもしれません。

良い人をやめるというか、愛想づくりをやめるというか、
そう言う相手には敢えて何も言わず、無言でいることが鉄則となっている
感じかもしれません。

どう思われてもいいと思えるようになると
勝手に思いたいように思えば?と言う心内になってきてるように感じます。
以前よりも逞しく強くなっているように感じます。
反応したり、反論すると余計にまたそれ以上に自分が辛くなるので
何も言わないのが基本、相手にしないと言う覚悟です。

ただし、挨拶だけは無視されても続けます。これは何処にいても・・・。
いいんです、私が自動的に人と会うと反射的にしてしまうものですから〜。

嬉しさや幸福感のみならず、
不安や心配事や恐れ、悩み、怒りなどのさまざまな感情を持つ
私たち。。。
それらの感情と「どのように向き合っていくか」を学ぶ手段としての
マインドフルネス

マインドフルに生きることは
一番自分にとって都合の良い生き方となっているようです。
このシェアハウスでもう少し踏ん張ってみます。
これもある意味、臨床観察と思って・・・




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