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紅衛兵

図書館

これといって図書館に思い出はない。行かないんだもの、ないよ。子どものころ図書館の黄色バッグを持ってる子をよく見かけた気がする。本がいっぱい入った黄色手提げの持ち手を腕にかけて子どもを二人くらい連れてるお母さんとか。大人になって図書館でのんびり本を読んでみたいとたまに思うことがあって出かけるといつも勉強中の学生たちが席を埋めていて、椅子がない。たまたま座れてもなんか窮屈。本屋さんでのように楽しめない。静かさを要求するところって、微かな音が耳についてしまって息が詰まるせいかな。それを緩和するには広さと高い天井が必用かも。

「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」という映画を見たのは、ラジオで聞いてわくわくしたからだと思う。図書館に親しんでこなかったけど、図書館の凄い役割と影響力はわかった。図書館ってこんなにいろんなことができてこんなに人を力づけ支えるのか!──賢治先生のことばを拝借しよう──「有機生命体」と呼びたいようなもの🌟



紅衛兵とわたし

ついこの前、アメリカの図書館大変じゃん、って驚くツイートを見たと思ったら、おっと、今日(9/22)は日本だよー。

権力の介入、社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、収集した資料を国民の利用に供する―。日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」はうたう。

信濃毎日新聞デジタル

内閣官房の拉致問題対策本部からの依頼で文部科学省が、北朝鮮による拉致問題に関する図書の充実を先月末各都道府県の教育委員会に要請した。
これについて文部科学省は「選書は各図書館がそれぞれの基準で判断することだとして、図書館の自由に関する宣言を逸脱する趣旨ではないと説明する。」
これだ。「要請」しただけ「強制」はしていない。ツノッタガボシュウシテナイ「森友学園関連資料を改竄しろ」なんて言う必要なかったでしょうとも。自分の手を汚さなくても勝手にやってくれた。安倍氏からこっちすっかりこの方式が定着した。
「長野県教委は文科省の事務連絡を受けて、同じ内容の通知を県立学校や市町村教委に出した。」
ここまでは思惑通りになったようだ。

米国の教育現場から一部の書籍を排除する動きが広がっている。子どもに適切な本をめぐる論争は繰り返されてきたが、今回は、保守的な保護者が人種、LGBTQ(性的少数者)のテーマを扱う本に対し、政治を巻き込んで組織的な反対運動を繰り広げている。米国分断の新たな火種になっている。
「白人の子供が罪悪感を感じる」。こうした親の声を受けてペンシルベニア州南部の教育委員会は、昨秋から数百の本やドキュメンタリー映像の教室での使用を禁止した。その多くは人種差別や多様性の尊重を扱っている。テキサス州では州下院議員が約850冊のリストを掲げ、「生徒が自分の人種や性により、不快感、罪悪感、精神的苦痛を感じる本を所蔵していないか」、州の教育局に調査を指示した。オクラホマ州では州上院議員が親に学校図書の差し止めを許す法案を提出した。

日本経済新聞

「白人の生徒が罪悪感を感じる」可能性がある本から白人の生徒を守るという理由づけをした排除の動き。陳腐な例えしか浮かばないけど、「あなたわたしの足踏んでるからどけて」と言うな。言われた相手が罪悪感を持つから黙って踏まれていろと要求してるのとどこが違うのかと思った。
自分とは相容れない「トランプ」的人たちの暴力だと単純に思った。ところがつづきを読んだら、そんなこと言って済まされなくなった。

排除運動の活発化は、左派がポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の観点から伝統的な書籍を排除したことへの反動との見方もある。この数年、米文学の古典とされる「ハックルベリー・フィンの冒険」(マーク・トウェイン著)や著名絵本作家、ドクター・スースの絵本が、黒人奴隷やアジア人を描いた部分に不適切な表現があるとされて、推薦図書から外されたり、出版停止になったりした。ローラ・インガルス・ワイルダー氏の「大草原の小さな家」は先住民の描き方が批判され、児童文学賞に冠されていた著者の名前が外された。
(略)
ペンシルベニア州の高校生クリスティーナ・エリスさんは最近、書籍排除に対する抗議運動を始めた。彼女は、「本は異なる文化や生き方があることを教えてくれる。無知ではなく思いやりを持って友人に向き合えるようになり、いじめも減る」と米下院監視改革委員会が7日開いた公聴会で訴えた。(ワシントン=長沼亜紀)

日本経済新聞

「造反有理! 造反有理!」🎵タッタッター タララララ・・・頭の中ではじまった。アコーディオンの伴奏で歌い行進する音ザッザッザッーー。
ベルトルッチ監督の「ラスト・エンペラー」をロードショーで観た、テレビでも何度も観た。文化大革命で紅衛兵たちが高らかに「造反有理」を叫び、歌い、あらゆる既存の価値を否定して(たぶん喜んで)破壊していた様が忘れられない。いまとなっては最も印象に残ってしまっている。それはわたしに「紅衛兵時代」があるからだ。いつごろからだろう、「紅衛兵の心」だったころの自分を振り返るようになったのは。折々考えて、この度も考えることになった。

何がきっかけで「紅衛兵」が発動したんだ? 洗剤や化粧品の毒性に関する本を読んだことは、はじまりじゃなくてだめ押しか? 原発が稼働する陰には人が被曝しながら掃除をしている実態があり、彼らは「原発ジプシー」と呼ばれているとか、自分が出しているプラスチックゴミは多すぎるとか、農薬、食品添加物だとか、レイチェル・カーソン「沈黙の春」と有吉佐和子「複合汚染」とか、チッソの水俣病とかーーー疑問が積み重なり大きな怒りになっていた。
人間は地球を破壊している!

人間は地球を好き勝手に使っていいと思って汚染して破壊している。

人間は地球にいていいんだろうか?

地球は人間なんかいなくても困らない。

わたしは人間だから、加害責任がある。

わたし知りませんけど?!
農薬にも原発にも賛成した覚えはないんですけど。
生まれたら既にこの世界でした。

それなのに、それなのに、わたし加害責任ある!
なんだこの理不尽は?

背負えないけど背負うのが、「生まれた」っていうことなんだろうけれど。

自分が生まれたときにはもう既に、人間は地球に毒を垂れ流して地球を汚染していた。空気、土、水には人間がつくりだした毒が入っていた。毒が入っていない空気を吸って毒が入ってない水を飲めた人たちが毒をつくって地球を汚染した。
わたし(たち)は汚い空気を吸って毒水をのむ。
地球を汚染することを気にも留めず「発展!発展!発展!」で来た世代に怒った。そして憎しみが。

怒りは、洗剤と化粧品に向かった。最近のCMは知らないけど、干からびた地面と死に絶えた木と女の肌を結びつけて、これを使わないとこうなるよって脅すような化粧品のCMがあった。銀座の化粧品会社の社長が、アメリカと日本では御社の商品の価格にかなり開きがありますがなぜですかとの質問に、「日本の女性は高くないと買わないから」と答えているのを贅沢な雑誌で読んだとき愕然とした。写真の人は女たちをバーカ!って嘲笑うようなどや顔で写っていた。その人物を、やっすい原材料費に容器代宣伝費をかけてもごまんとお釣りが来る商売で儲けさせてやり、高価なものを纏わせ紳士然とさせてやっているのはほかでもない、彼がバカにしている女たちだ。彼の会社の製品ではないが、皮膚が荒れやすいから安くない基礎化粧品を使っていたわたしもバカだ。
わたしの心の紅衛兵が炸裂した。よくも騙したな!
自分が使っているあらゆる洗剤、化粧品に、これは有害だから使いませんと手紙を書き、何かあったときのために手紙をコピーして、製品の会社に送り返した。送料は母親が毎月渡してくれた数万円から出したのか、稼いだのか思い出せない。

あの当時の自分の経験とアメリカの図書界に生じていることは、規模は違うけど構造は同じなのでは。マーク・トウェインの著作が「推薦図書から外された」りと記事にあるのを読んだとき、ああ、紅衛兵がここでも暴れちゃった、と思った。ポリティカルコレクトネスにもマーク・トウェインにも全然詳しくないけど。
何か圧倒的な不当さが、「不当」だって気づかれたとき、長きに渡って抑圧されてた方はお行儀よく抑制を効かせて手足を伸ばすなんてできるわけがない。「不当」をはね除けようとする意欲は暴力を発動させる。
アメリカの図書界での「たたかい」は大西洋を船で渡ってきた人たちが、もっともっともっと古い時代にベーリング陸橋を渡ってきて暮らしてきた人たちの親切に助けられたのに仇なしたときまで遡れる。それから白人たちは西へ西へフロンティアを開拓し、南部では綿花で富み栄えた。「線路はつづくよどこまでも」は未来への希望の歌ではないって聞いたよ。線路敷設のために中国人のちに日本人が奴隷のように働いた、そのいつ果てるとも知れない辛い労働の歌なんだって。鉄道を敷くために草の海を薙ぎ払い、邪魔なバッファローを殲滅した。走る機関車にぶつかるバッファローから機関車を護るために機関車の正面に前掛けつけた。牛=財産の脅威だからと狼も殲滅した。あらゆる方面からの「排除」やむなしだよ。(他人事ではない。)
でも、私有を知らない未開の野蛮人が遊ばせて無駄にしていた土地を有効活用して、未開な野蛮人を有効活用してアメリカを繁栄させ偉大なアメリカを築いたことを否定するのか!と考える人たちは、倍返しじゃ済まないだろうな。

製品を送り返していた当時、わたしは荒々しい自分の心を感じていた。それを「暴力」と名指したかというと、思い出せない。振り返ってあのころは紅衛兵だったなと思った。そして紅衛兵がしたことをわたしは暴力と呼ぶ。紅衛兵たちは正義は我々にあると信じていただろうし、わたしは正義は自分にあると信じて、自分が被った不正を正すために行動していた。
シャンプーを製造した人だけが、連絡をくれた。
話を伺うとその人は真面目につくっている、立派な人だと思った。でもわたしは紅衛兵だったから、いかにその人を認めようとも、合成界面活性剤は「悪」という信念は揺るがなかった。
申し訳なく思っている。
「完全せっけん生活」をしていたはじめは清々しく楽しく軽やかだったが、次第に楽しくなくなって、やめた。

「原理主義」は、もういい。


耕さない農業

「妙なる畑に立ちて」という本をむかし読んだ。テレビで福岡正信さんの耕さない農業も見た。とてもおもしろかった。冬季湛水不耕起栽培の水田のことをテレビで見たときは、わくわくした。いよいよ耕さない農業の時代が来るか?!
来なかった。
耕さない、除草剤、殺虫剤、化学肥料使わない。農薬にかかるお金が要らない、いいことづくめと思えるが一向に広まらないのはどうしたことか?
耕さない、農薬無しは、現実的じゃないのかなーーーすっかり忘れていたけど、これを書くために検索していたら楽しい記事に出会えた。
⇩「耕さない農業」だ!



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