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『甘い生活』:1960、イタリア&フランス

 ゴシップ記者のマルチェロ・ルビーニは、キャバレーで張り込んでいた。過去にゴシップ記事を書かれた男はマルチェロに気付き、「君のせいで離婚寸前だ」と批判する。しかしマルチェロは全く悪びれず、平然と受け流した。
 富豪令嬢のマッダレーナを見つけたマルチェロは、「ウォッカを飲むかい」と持ち掛けた。マッダレーナが「気分が最悪なの。今日は帰るわ」と言うので、彼は同行を申し出た。店外へ出ると複数のカメラマンが押し寄せ、マッダレーナの写真を撮影した。

 マルチェロとマッダレーナは車に乗り込み、店から遠ざかった。マッダレーナが「隠れて暮らしたいけど無理だわ。ローマはウンザリ」と漏らすと、マルチェロは「大金持ちは面倒だな」と告げた。マッダレーナは車を見つけた娼婦に声を掛け、ドライブに誘った。
 娼婦が家まで送ってほしいと言うと、マッダレーナは承知した。家に到着すると、マッダレーナは「部屋でコーヒーを」と言う。2人を家に招き入れた娼婦は、配管業者のせいで床が水浸しになっていたので不満を漏らす。寝室へ案内されたマッダレーナはマルチェロを誘い、ベッドでセックスに及んだ。

 翌朝になってマルチェロが帰宅すると、同棲相手のエンマが薬を飲んで自殺を図っていた。マルチェロは慌てて「俺を破滅させたいのか。死にたいなら、いずれ死なせてやる。今は死ぬな」と告げ、エンマを病院へ運んだ。
 居合わせた記者から話し掛けられたマルチェロは、「この件は書かないでくれ。警察が来て面倒なことになる」と頼んだ。マルチェロは医者から、エンマは無事だが安静にさせる必要があること、警察が事情を訊きに来ていることを告げられた。

 ハリウッド女優のシルヴィアが映画撮影のため、空港に降り立った。大勢の記者やカメラマンが押し寄せる中で、映画プロデューサーのスカリーゼが駆け付けてピザをシルヴァに食べさせた。少し離れて取材の様子を眺めていたマルチェロは、客室乗務員を口説いた。
 場所を移動したシルヴィアは、スカリーゼが用意した記者会見で取材に応じた。マルチェロも同席するが、エンマからら電話で「こっちへ来て」と言われる。嫉妬深いエンマが浮気を疑ったので、マルチェロは否定した。

 マルチェロはスカリーゼに頼まれ、シルヴィアのローマ観光をセッティングした。彼女と2人きりになったマルチェロは、ロバートという婚約者がいるのも構わず、すぐに口説いた。夜になり、マルチェロはロバートたちがいる前でシルヴィアと踊った。
 シルヴィアを落とそうとするマルチェロだが、俳優のフランキー・スタウトが来て彼女に声を掛けたるフランキーはバンドにチャチャチャを演奏させ、陽気にシルヴィアと踊った。それから歌手のアドリアーノを呼んでロックを歌わせ、シルヴィアと盛り上がった。

 シルヴィアはロバートから嫌味な言葉を浴びせられ、憤慨して立ち去った。マルチェロは「連れ戻す」と言い、彼女を追った。マルチェロがシルヴィアを車に乗せると、カメラマンのパパラッツォも同行しようとする。マルチェロは彼を追い払い、追って来る記者を撒いた。
 マルチェロは改めてシルヴィアを口説き、キスしようとする。しかしシルヴィアは犬の遠吠えを耳にして「誰かを呼んでるのよ」と言い、自分も吠えた。近所の人が通り掛かったので、マルチェロは場所を変えることにした。

 野良猫を拾ったシルヴィアがミルクを貰うためバーへ行こうとしたので、マルチェロは「探して来るよ」と告げる。彼がミルクを持って戻ると、シルヴィアは噴水に入っていた。
 朝になってマルチェロがシルヴィアを連れ戻ると、待ち構えていたカメラマンたちが写真を撮影した。ロバートは険しい顔でシルヴィアに平手打ちを浴びせ、建物に入るよう指示した。彼はマルチェロに近付くと、何発も殴り付けて立ち去った。

 ある日、マルチェロは旧友のシュタイナーを見つけ、後を追って教会に入った。シュタイナーは再会を喜び、「ここには良く来る」と言う。彼は神父の許可を貰い、オルガンを演奏した。
 別の日、ダリオとマリアという子供たちが聖母様を見たという出来事を取材するため、マルチェロはエンマとパパラッツォを伴って2人の住む村へ赴いた。村に到着すると、子供たちが保護されている警察署の前には大勢の人々が押し掛けて抗議していた。

 マルチェロは先に来ていた記者のノーマンと共に、奇跡の木を見に行く。パパラッツォは警察署へ侵入し、子供たちの両親を見つけて写真を撮った。村の神父はマルチェロの取材を受けて奇跡を否定し、「あの子たちは不純だ。本当に聖母様を見た者は売名行為などしない」と告げた。
 夜になってテレビの生中継が始まると、マルチェロは照明の台に上がる。エンマは「貴方は変わったわ。なぜ愛してくれないの」と寂しそうに漏らした。

 ダリオとマリアが現れると、カメラマンたちは一斉にシャッターを切った。2人が奇跡の木に向かって祈ると、雨が降り出した。マリアは「聖母様だ」と叫び、木と逆方向へ走り出した。彼女は「あそこにいる」と言いながらあちこちを走り回り、記者たちが追い掛けた。
 最後にマリアは「教会を建てないと来ないって」と告げ、叔父に連れられて去った。人々は奇跡の木に群がり、枝を奪い合った。雨を避けようと歩いていたマルチェロは、1人の女性が「奇跡は無かった。私の坊やは死んだ」と嘆く様子を目撃した。

 数日後、マルチェロはシュタイナーに招かれ、エンマを連れて彼の家を訪れた。シュタイナーの邸宅には、マルチェロの旧友であるアンナも来ていた。他には画家のマルゲリータを始め、著名な作家や詩人たちが訪れていた。自然の音を録音したというシュタイナーのテープに、エンマは興味を示した。幼い娘と息子が起きて来ると、シュタイナーの妻が寝室へ連れて行った。
 エンマの質問を受けたシュタイナーは、子供たちを傍らに眠ると、至福の喜びに包まれる」と話す。マルチェロはバルコニーへ出たシュタイナーに歩み寄り、「頻繁に訪れたい。自分の環境を変える必要がある」と告げた。シュタイナーは彼の考え方に否定的な見解を示しつつ、「出版社を紹介することなら出来る。それで道が開けるかも」と述べた。

 ある日、マルチェロは海辺のカフェでタイプライターを打っていた。彼は店で働く少女のパオラに興味を抱き、話し掛けた。ペルージャ出身のパオラは父の仕事の関係でローマへ来ており、クリスマスが過ぎたら他の町へ移ることになっていた。
 町に戻ったマルチェロは、父が来ていることをパパラッツォから知らされた。父は省庁の仕事でローマへ来ており、母から預かった手紙をマルチェロに渡す。「家に電話したら女性が出た。楽しむのもいいが、結婚も大事だぞ」と言われたマルチェロは、「家政婦だよ」と嘘をついた。

 友人から聞いたキャバレー“チャチャチャ”へ行きたいと父が言い出したので、マルチェロはパパラッツォと共に車で連れて行く。ショーが始まると、マルチェロの知り合いである踊り子のファニーが登場した。マルチェロが写真を載せるという約束を守っていないので、彼女は抗議した。
 父はファニーを気に入り、テーブルに呼んでシャンパンを注文した。さらに彼はファニーの車に乗り、彼女の家へ出向いた。マルチェロはファニーから父の具合が悪そうだと聞き、慌てて彼女の家へ行く。父は「飲み過ぎただけだ」と言い、5時半の列車に乗るため支度をする。マルチェロは明日まで残ってほしいと頼むが、父は「家に帰りたい」とタクシーで去った…。

 監督はフェデリコ・フェリーニ、脚本はフェデリコ・フェリーニ&エンニオ・フライアーノ&トゥリオ・ピネッリ、製作はジュゼッペ・アマト&アンジェロ・リッツォーリ、製作総指揮はフランコ・マグリ、撮影はオテッロ・マルテッリ、編集はレオ・カットッツォ、美術はピエロ・ゲラルディー、衣装はピエロ・ゲラルディー、音楽はニーノ・ロータ。

 出演はマルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、イヴォンヌ・フルノー、マガリ・ノエル、アラン・キュニー、アンニバレ・ニンキ、ワルター・サンテッソ、ナディア・グレイ、レックス・バーカー、ジャック・セルナス、ヴァレリア・チャンゴッティーニ、リカルド・ガローネ、アイダ・ガッリ、オードリー・マクドナルド、ポリドール、アラン・ディジョン、ミーノ・ドーロ、ジュリオ・ジローラ、ラウラ・ベッティー、ニコ・オトザク、ドミノ、カルロ・ムストー、エンツォ・セルシコ、ジュリオ・パラティシ、エンツォ・ドリア他。

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 カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した作品。監督は『道』『カビリアの夜』のフェデリコ・フェリーニ。ちなみにゴシップカメラマンのことを「パパラッチ」と呼ぶようになったのは、パパラッツォが語源だ。
 マルチェロをマルチェロ・マストロヤンニ、シルヴィアをアニタ・エクバーグ、マッダレーナをアヌーク・エーメ、エンマをイヴォンヌ・フルノー、ファニーをマガリ・ノエル、シュタイナーをアラン・キュニー、マルチェロの父親をアンニバレ・ニンキ、パパラッツォをワルター・サンテッソが演じている。

 富裕層の人々の傲慢さや身勝手さが、最初のエピソードで描かれる。マッダレーナが急に娼婦をドライブに誘うのは、ただの気まぐれとして何の問題も無く受け入れられる。それは娼婦が断れば済むことだし、迷惑は掛けていない。
 ところが娼婦の家に着くと、すました様子で「部屋でコーヒーを」と言う。寝室へ案内すると、マルチェロとセックスを始めてしまう。ずうずうしいにも程があるが、マッダレーナは全く気にしちゃいない。娼婦は少しぐらい謝礼を期待するが、マッダレーナは感謝の言葉さえ言わずに去る。

 マルチェロは富裕層の人間ではないが、そういう連中と付き合っている影響なのか、すっかり傲慢の世界に染まっている。エンマが自殺を図った時、マルチェロは彼女のことなんて全く心配していない。「俺を破滅させたいのか」「死にたいなら、いずれ死なせてやる。今は死ぬな」という言葉が表しているように、気にするのは自分のことだけだ。その一件が広まって自分が厄介な立場に追い込まれることだけを心配しているのだ。
 また、自分は他人のゴシップを暴いて記事にしているくせに、そのことは書かないよう記者に頼んでいる。当然と言えば当然かもしれないが、なんとも身勝手なお願いである。

 エンマが自殺未遂を起こしても、マルチェロは全く生活を変えようとしない。相変わらず他の女を見ると口説いているし、今までに比べてエンマを気遣うということも無い。彼が生活を改めるチャンスは幾らでも転がっているが、そこで彼は自分を変えようとはしない。
 今の自分が素晴らしい人生を送っていると思っているわけでも、充実感に満ち溢れているわけでもない。むしろ、本当は抜け出した方がいい、何かを変えた方がいいという気持ちはあるのだ。だが、実際に変えるだけの気持ちには至らない。

 マッダレーナから結婚を求められた時、マルチェロは真剣に愛していることを訴える。しかし彼は、マッダレーナと結婚しようという気など全く無い。エンマから本気の愛を拒んでいることについて批判された時も、やはり結婚する意識は全く見せない。
 彼はエンマと口論になるが、では彼女との関係をキッパリと切るのかというと、すぐにヨリを戻してズルズルと続ける。大勢の女を口説き、その場その場で楽しくやるだけだ。1人の女性を真剣に愛そうとか、結婚して身を固めようとか、そういう「真っ当な人生」を送るために、マルチェロは努力しようとしない。

 自由奔放な行動を繰り返すシルヴィアは、マルチェロが惹かれるだけでなく、確かに魅力的な女性と言えるかもしれない。ただし、やはり彼女もマッダレーナと同じで、享楽的な社会の住人だ。金銭的に余裕が無ければ、そんな暮らしなど絶対に不可能だ。
 庶民は娼婦のように体を売ったり、ダリオとマリアのように奇跡の話を外国人記者に話してでも金を稼がないと生活できない。この映画でマルチェロの仲間として登場する面々は、みんな退廃した富裕層だ。

 この映画では、宗教も1つのテーマになっている、冒頭、イエス像を運ぶヘリコプターが登場し、見上げた人々が手を振る。キリスト教徒にとっては神々しい存在であるはずのイエス像だが、もはや単なる見世物になっている。奇跡の木にしても、やはり同様だ。
 死が近い息子のため、真摯な気持ちで祈りを捧げる母親もいる。だが集まって来る人間の大半は、興味本位のマスコミと野次馬だ。そこに純粋な信仰心など全く無い。神や宗教さえも見世物になるほど、世の中はスキャンダル主義に染まっているということだ。

 マルチェロにとってシュタイナーとの再会は嬉しい出来事だが、同時に劣等感や恥ずかしさを抱くことにも繋がっている。「君の本は?」と問われたマルチェロは「順調だよ。ほぼ書き上がっている」と答えるが、その顔は冴えない。なぜなら、実際は全く書いていないからだ。
 「君が書いた記事を読んだよ」と言われたマルチェロは「駄文だ」と告げるが、それは謙遜ではなく本当にそう思っているのだ。いや、シュタイナーと会うまでは、特に何とも思っていなかったかもしれない。しかし親友と再会したことで、自分が駄文を垂れ流すことしか出来ていないと痛感させられるのだ。

 シュタイナーはバッハの『トッカータとフーガ ニ短調』を、オルガンで見事を演奏する。それを聴いたマルチェロは、やり切れなさを感じさせる様子を見せる。信仰心が厚く、足繁く教会に通い、見事にオルガンを弾くシュタイナーに比べて、自分の生き方は何なのかと思い知らされるのだ。
 シュタイナーの家を訪れた時、マルチェロにとって彼は明確な形で憧れの存在となる。マルチェロは自分が虚無と退廃の中にいると認識している。そこに大きな不満があるわけではないが、全面的に良しとしているわけではなく、抜け出したい気持ちも少なからず抱いている。

 そんな彼が持っていない物を、シュタイナーは全て持っている。立派な邸宅、温かい家族、文化的な人々との交流に触れ、マルチェロはシュタイナーのようになりたいと考える。まさに彼にとってのロール・モデルなのだ。
 マルチェロはシュタイナーに、「君の家は避難所だ。昔は野心があったが、僕は時間を浪費しているる何もかも忘れて失おうとしている」と語る。だが、シュタイナーは「この家に閉じ篭もっていても救いにならない。全てが定められた息苦しい社会に守られて生き続けるだけの人生より、どん底の人生の方がいい」と言う。
 マルチェロが憧れる存在のシュタイナーは、自分が幸せだとは思っていないのだ。むしろ辛さや苦しさばかりを感じており、自身の人生を全否定する。

 それはマルチェロからすると、不可解で理解できないことだ。しかしシュタイナーが自身の人生を否定する理由は、マルチェロが思っているような生活ではないからだ。表面的には「幸せに満ち溢れた暮らし」だが、彼は苦悩を抱えていた。
 そんなシュタイナーが2人の子供を殺して自殺したと知り、マルチェロはショックを受けるが、享楽的な生活から脱却しようとはしない。むしろ、シュタイナーの自殺によって目指すべき理想を見失い、退廃の中にしか場所が無くなったとも言える。虚飾の愚かしさは自分でも呆れるほど分かっているが、それでも抜け出す覚悟は無いのだ。

(観賞日:2017年12月2日)

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