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『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』:2014、日本

 渦原琴子、通称「こっこ」は、大阪にある登北(のぼきた)小学校3年2組の生徒だ。ある日、担任教師のジビキは生徒の香田めぐみについて、ものもらいが出来たと話す。彼は生徒たちに、眼帯をしていると遠近感が分からないので助けてやって欲しいと告げる。
 こっこは初めて耳にする「ものもらい」「がんたい」「えんきんかん」という言葉に興味を抱き、「じゃぽにか」と呼んでいるジャポニカ自由帳に書き留めた。

 こっこはめぐみの真似をして片目に眼帯を装着し、体育の授業を休んだ。めぐみが移してもうたんかなあ」と申し訳なさそうに言うと、彼女はおしとやかな口調で「ええんよ、私もものもらい気味やったから」と言葉を間違える。男子生徒のちゅーやんが「どうせ真似っこやろ」と言うと、こっこは「うっさい、ボケ」と怒鳴り付けた。
 そんな彼女は、狭い団地に家族8人で暮らしている。父の寛太、母の詩織、祖父の石太、祖母の紙子、三つ子の姉である理子&眞子&朋美というのが、渦原家の家族構成だ。

 渦原家の食事は、円卓を囲んで行われる。夕食の際、こっこの眼帯を見た寛太は、「メバチコやろ」と指摘する。こっこが声を荒らげて「違う、もらいものや」と否定すると、寛太は「もらいものやろ。それをメバチコって言うねや」と説明する。こっこは小さな声で、父に悪態をつく。
 石太が「麦粒腫の通称なんや」と言うので、こっこは「ばくりゅうしゅ」という新たな言葉に興味を示した。夕食の席には、なぜか理子の彼氏である森上も同席していた。眞子&朋美が「顔だけ」と言うと、寛太は「顔も、そうでもない」と指摘した。

 翌朝、こっこは同じ団地に住む幼馴染でクラスメイトのぼっさんと学校へ行く。ぼっさんは吃音症なので、独特の話し方をする。朋美はこっこが忘れて行った自由帳を見つけ、こっそり盗み出した。彼女の目的は、表紙に使われている蟻の写真だった。
 朋美は理子&眞子に自由帳を見せ、3人で祖母にプレゼントする予定のベレー帽に蟻を刺繍する考えを明かす。理子と眞子は、センスがいいと絶賛した。3人は自由帳を開き、こっこの「こどく」「ぼーとぴーぷる」「ぽるぽっと」といった文字を見て「可愛い」と感じた。

 こっこはホームルームで、「学校で生き物を飼うかどうか」という議題を提案した。ぼっさんと事前に練習した彼女は、大げさな芝居で主張を訴えた。しかしクラスメイトの心には響かず、ちゅーやんたちに反対される。
 こっこは「自分が生き物を飼いたいだけ」という指摘を開き直った態度で認め、喧嘩腰で言い返した。他の生徒たちも騒ぎ始め、静かにさせようとした学級委員の朴が胸を押さえた。こっこは自分の演説が届いたのだと感じるが、朴が倒れたのでジビキは慌てて救急車を呼んだ。

 朴が病院へ運ばれた後、ジビキは生徒たちに不整脈だったこと、パニックになって心臓の鼓動が速くなったことを話す。「ふせいみゃく」「ぱにっく」という新しい言葉に、こっこは好奇心を抱いた。すぐに書き留めようとした彼女は、自由帳が無いことに気付いた。
 彼女が必死になって探していると、クラスメイトから「不整脈になるぞ」「パニックや」という声が飛んだ。こっこが胸を押さえて倒れる芝居をすると、ジビキは真剣な顔で「お前はちゃうやろ」と静かに諌めた。

 こっこ、ぼっさん、めぐみ、ゴックんの4人は、朴の家へ様子を見に行く。朴は元気に回復していたが、その時は苦しくて死ぬかと思ったと話す。こっこは「かっこいい」と感じ、朴の「死ぬのは嫌」という感覚を理解できなかった。
 朴が韓国人で母親の朋美が在日三世だと知った彼女は、それも「かっこいい」と感じた。彼女にとっては、ゴックんが在日ベトナム難民でボートピープルであることも、やはり「かっこいい」の対象だった。

 夕食の時、寛太は詩織が妊娠したことを発表する。家族が笑顔で祝福する中、こっこだけは「嬉しない」と不愉快そうに言う。「なんで、みんなそんなに喜ぶん?」と、彼女は問い掛ける。こっこはぼっさんと会い、自分の考えを話す。すると、ぼっさんは「嬉しなかったら、喜ばんでええ」とぼっさんは述べた。
 こっこは彼に、不整脈の真似でジビキが怒ったことも理解できないと語る。ぼっさんは、こっこが「かっこええ」と思っていても、本人はものすごく嫌がっていることもあるのだと説いた。

 ぼっさんはこっこに、本人が喜んでいれば真似してもいいが、嫌がっていたら避けるべきだと話す。こっこは彼に、本人が喜んでいるかどうかの違いが分からないと言う。
 ぼっさんが「想像するしかないんや」と告げると、隣にいた石太が「いまじん」という言葉を教える。それが「想像する」を意味する英語だと説明した石太は、「相手がどう思ってるか、年取った方が分かることもある。どう思うかは自分で考えたらええ。ただ、自分で思うと言うたことには責任を持たなアカン」と語った。

 1学期が終了し、ジビキは最後のホームルームで登校日の荷物について説明する。書き留めようとしていたこっこは、前の席に座る幹成海がノートの端を千切り、「しね」と書いて丸める様子を目撃した。彼女は「しね」の切れ端を大量に丸めて机の中へ入れており、こっこはそれを見て驚いた。
 その夜、こっこの夢には膝を抱えて座っている成海が出て来た。一方、ぼっさんは兄から家にある七福神を見せられ、その内の5体が寿老人だと知った。ぼっさんの夢には、歩いて団地へ近付いて来る寿老人が登場した。

 夏休みの自由製作で、こっこはぼっさんと共に蚊を集めることにした。2人は炎天下に座り、腕の血を蚊に吸わせた。そして蚊を叩いて捕まえ、それをセロテープでノートに張り付けた。2人は5年生に頼み、学校で飼育されているウサギの散歩をさせてもらった。
 朴の家へ遊びに行くゴックんと出会った2人は、合流することにした。こっこは朴に、誰かを「死ね」と思ったことがあるかと尋ねた。朴は「無い。でも、誰かを守りたいって思ったことはある」と、泣きながら電話で話す母親を思いながら答えた。

 お盆はぼっさんが墓参りで松山へ帰郷したため、こっこは一人で自由製作に取り組むことにした。彼女が空き地で蚊を集めようとすると、胸にSの刺繍がある全身タイツの鼠人間が現れて「ハロー」と告げた。体をクネクネと動かす鼠人間に、こっこは恐怖を感じた。
 鼠人間が「御尊顔を踏んでくれはるのん?」と仰向けに寝転んだので、こっこは彼の顔を踏んだ。その場から逃走した彼女は、ウサギの世話へと赴いた。こっこは仰向けに寝転び、ウサギを顔面に乗せてみた…。

 監督は行定勲、原作は西加奈子(『円卓』文春文庫刊)、脚本は伊藤ちひろ、製作は小石川伸哉&本田正男&山本晋也&森岡宣喜&永井靖&窪田邦倫&徳永眞一郎&大田圭二&水口昌彦&和崎信哉、エグゼクティブプロデューサーは藤門浩之&吉澤貴洋、プロデュースは三好順作&木村尚美、プロデューサーは古賀俊輔&倉田泰輔、協力プロデューサーは湊谷恭史、ラインプロデューサーは大日方教史、撮影は福本淳、照明は市川徳充、美術は相馬直樹、録音は伊藤裕規、編集は今井剛、音楽は めいなCo.。

 芦田愛菜、伊藤秀優、平幹二朗、いしだあゆみ、羽野晶紀、八嶋智人、丸山隆平、青山美郷、入江甚儀、中村ゆり、谷村美月、森山開次、三浦誠己、川藤幸三、タージン、浜村淳、古谷聖太、草野瑞季、野澤柊、内田彩花、吉岡伽蓮、外山鉄人、藤田更紗、木村帆尊、向井悠悟、吉田晴登、蔵前美郁、村瀬透和、玉山詩、石原誠剛、寺川宗汰、福栄新、森遥野、永田きら、徳永風歌、岸田雅、佐々木一途、林卓、江上凌平、新居明果、舘岡和奏ら。

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 西加奈子の小説『円卓』を基にした作品。こっこを芦田愛菜、ぽっさんを伊藤秀優、石太を平幹二朗、紙子をいしだあゆみ、詩織を羽野晶紀、寛太を八嶋智人、ジビキを丸山隆平、理子&眞子&朋美を青山美郷、森上を入江甚儀、朴くんのお母さんを中村ゆり、鼠人間を森山開次が演じている。
 監督は『クローズド・ノート』『今度は愛妻家』の行定勲。脚本は行定勲と9本目のコンビになる伊藤ちひろ。っていうか基本的に伊藤ちひろは「行定勲作品の脚本家」であり、それ以外の仕事は映画『スカイ・クロラ』とTVの『東のエデン』第一話というアニメ2作品だけだ。

 まず観賞する前に引っ掛かったのは、「このタイトルは何なのか」ってことだ。原作の『円卓』というタイトルのままだと、どういう内容なのかが伝わりにくい。だから改題しくなるのは分かる。でも完全に別タイトルにしちゃうと、原作の持つ訴求力は消えてしまう。だから原作の「円卓」は残しつつ、そこに中身を伝えるためのサブタイトルを加えて、出来上がったのが『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』ってことなんだろう。
 でも「何が伝えたいのか良く分からん散漫なタイトル」という印象なのよ。少なくとも「こっこ」は要らなくねえか。『円卓 ひと夏のイマジン』で良くねえか。まあ、それでもイマイチだと思うので、原作の訴求力が使えないというリスクを負ってでも、完全に変えちゃった方が良かったんじゃないかとは思うけど。

 冒頭、ジビキが香田めぐみについて語ると、こっこの頭上に「ものもらい」「がんたい」「えんきんかん」という文字が立体として浮かぶ。こっこは自由帳を開き、その文字を鉛筆で捕まえて書き留める。
 そういう非現実的な表現で物語を始めたことは、大正解だ。そうすることによって、これが「子供の視点から描かれたファンタジックな世界」であることをアピールできる。そして、その「子供の世界」に入り込ませるための、有効な導入口になっている。

 芦田愛菜は芝居の上手い子役ではあるが、その上手さが時に「わざとらしさ」に感じられることもある。しかし本作品では、彼女の「芝居の強さ」が上手く生かされている。
 彼女だけでなく、他の子役たちも総じて少しクドいんじゃないかというぐらいの演技をするが、これは意図的なものだろう。そういうリアリティーから離れた「子供たちの世界」を作ることによって、前述した「ファンタジー」のイメージを広げることに利用しているのではないだろうか。

 こっこというヒロインは、子供の「無邪気」や「無垢」といった要素を際立たせたようなキャラクターになっている。「無邪気」「無垢」というのは通常、プラスの意味で使われることが多い。子供の純粋さを示すような表現として、それは使われるケースが多い。
 しかし純粋というのは、必ずしも良いことばかりではない。幼い子供は確かに純粋かもしれないが、自らの欲求に対しても純粋だ。その純粋さは、時に人を傷付けたり、周囲に迷惑を掛けたりすることに繋がるのだ。

 めぐみがものもらいで眼帯を装着すると、こっこは「カッコイイ」と感じて真似をする。彼女に取って初めての物、珍しい物は、全て「カッコイイ」のだ。こっこにとって、「カッコイイかどうか」ってのが価値基準になっており、「カッコイイ」ことが最優先事項なのだ。
 朴が不整脈になった時のことを「死ぬかと思った」と説明すると、こっこは「ええなあ。死ぬなんて思うことなんて普通無いやん。死ぬなんて、めっちゃカッコエエやん」と口にする。大人が聞いたら叱り付けそうな言葉だが、こっこには朴を馬鹿にしようという気など無い。不謹慎なことを言っているつもりも無い。彼女は本気で、不整脈や死ぬかと思うことを「カッコイイ」と思っているのだ。

 こっこはぼっさんの吃音を執拗に真似して、こっぴどく教師から叱られたこともある。ぼっさんはこっこが馬鹿にしているわけじゃなく、本気で「吃音がカッコイイ」と感じて真似をしたと分かっていたので、それで不快に感じることは無かった。
 しかし吃音にしろ不整脈にしろ、こっこのことを良く知らない相手、それも子供じゃなくて大人が真似をされたら、たぶん不愉快に感じるだろうし、怒りを覚えるかもしれない。無邪気や無垢が人を傷付けるってのは、そういうことだ。

 こっこは、まだ自分の行為が人を傷付ける可能性を秘めていることに気付いていない。本気でカッコイイと感じている、いわばリスペクトがあるわけだから、なぜ真似をしては駄目なのかが分からない。大人からすると「なぜ分からないのか」ってことだが、この映画を見れば、こっこの考え方や気持ちは充分に理解できるだろう。
 大抵の大人は、それを頭ごなしに叱り付け、「やってはいけない」と禁止することだけで済ませようとする。だが、「なぜ」に対する答えの無い禁止や忠告は、子供の心には届かないのである。

 夕食で円卓を囲んだ家族が笑顔で見つめ、「こっこが大好き」というのを全面で表現した時に不愉快そうな様子を見せるのは、こっこにとって「普通のこと」だからだ。弟か妹が産まれると聞いても喜ばないが、それも彼女にとって「珍しくもないこと」だからだ。「焼き餅じゃない」という彼女の説明は、強がりではない。「家族が出来るのを手放しで喜ぶべきっちゅう決められた反応が、なんかきっしょい」というのは、本当の感覚なのだ。
 大人たちにとっては「当たり前」のことが、こっこにとっては当たり前ではない。ひねくれているのではなく、「普通は嫌、珍しい物がカッコイイ」という判断基準がハッキリしているということだ。自由帳に「こどく」と書いた彼女にとって、それを「カッコイイ」と感じる彼女にとって、家族が大勢いるってのは決して望ましいことではないのだ。

 こっこは、まだ色んなことを知らない。知らないから、不整脈や吃音を嬉々として模倣する。無垢ってのは、時に無知と結び付くものだ。彼女は新しい言葉に興味を抱いて書き留めているが、ちゃんと意味を理解しているわけではない。それは、本当に「知った」とは言えない。
 そして彼女は深い情報や正確な知識を知らないだけでなく、「相手の気持ち」ってのも分かっていない。相手の気持ちが分からないことは、適切な判断や対応を取れないことに繋がる。

 こっこは石太から、「イマジン」という言葉と意味を教えてもらう。「友達がどう思てるか知りたがることから、イマジンは始まる」と石太は話す。イマジンとは、言ってみれば「思いやりの心」である。
 それは「気遣い」とか「空気を読む」という行為にもなり、ある意味では子供の純粋さを失うことに繋がるだろう。それでも人が成長していく上で、「イマジン」はとても大切だ。それと引き換えに純粋さが失われても、仕方の無いことなのだ。

 朴くんのお母さんが電話で話しながら泣くのを聞いた時(たぶん相手は別居中の夫)、こっこは涙をこぼす。だが、それは会話の内容が心に響いたとか、貰い泣きしたということじゃなく、ただ単に真似をしてみただけだ。しかし朴の「誰かを守りたいって思ったことはある」という言葉には、その深い意味までは理解できなくても、何か感じるモノはあったはずだ。
 変質者である鼠人間との遭遇は、こっこにとって恐ろしい体験だっただろう。しかし、「もしも顔を踏まれたら、どんな風に感じるんだろう」と、相手の気持ちを考える経験には繋がった。そして、「珍しい物が全てカッコイイわけじゃない」という考えへ変化するきっかけになった。こっこにとって、「イマジン」の考え方を知ってからの全ては、成長のための人生経験なのだ。

 朋美が自由帳を返して謝罪した時、こっこはベランダから外へ投げ捨てて睨み付ける。だが、それは「絶対に許さない」という強い怒りや憎しみの感情から来る行動や態度と言うよりも、鼠人間との出会いが影響しているんだろう。
 その出会いがきっかけで、こっこの脳内には多くの情報や様々な気持ちが流れ込み、複雑に入り乱れ、上手く整理できなくて、変な形で爆発してしまったのだ。もちろん怒りが全く無いわけではないだろうが、普段の彼女なら、その感情を言葉に乗せて朋美に浴びせていたはずだ。

 こっこは鼠人間と遭遇して以降、口数が少なくなり、すっかりおとなしくなる。一時的には「元気が無くなる」という状態だが、それは同時に思考のための時間でもあり、最終的には「落ち着きを覚えた」というところへ着地する。
 それまで「カッコイイかどうか」という判断基準だけで物事を決め付け、周囲を無視して突っ走って来たこっこは、じっくりと深く考え、立ち止まって悩むことを覚える。全てを完全に理解することは出来ない。だが、大切なのは、分かろうとすること、イマジンすることなのだ。

 こっこの成長がハッキリと見えるのが、幹成海との関係だ。成海が二学期になっても登校しないので、こっこはプリントを届ける役目を引き受け、仲間と共に家を訪れる。成海は暗い様子で、学校がつまらないからズル休みしたことを話す。
 彼女は「別に理由は無い。嫌なことも無いし、でも面白いことも無いから」と言う。こっこが「死ね」と書いた紙を丸めていた理由について尋ねると、「よう分からん。なんか書きたくなって」と答える。

 なぜ成海が学校を休みたいと思ったのか、なぜ「死ね」と書いたのか、こっこには全く分からない。当事者の成海が分からないのだから、こっこに分かるはずも無い。
 それでも彼女は、イマジンしてみる。そして、理由を探ることではなく、「どうやったら成海が学校に来たいと思えるようになるか、どうやったら面白いと思えるか」を考える。彼女はぼっさんと協力し、自由帳に幾つもの言葉を書いて千切り、それを丸めて成海の机に入れる。

 久々に登校した成海は丸めた紙を見つけ、それを開く。最初は「ゆうやけ」だ。それは前日、こっこがぼっさんと見て、感動した光景だ。次の紙を開くと、「しか」と書いてある。前日の夕景で、こっこは鹿を目撃して感動したのだ。
 成海が次々に紙を開くと、「タオル」「つえ」「たこやき」「ホルモン」「あったかい手」「おもしろい形の野菜」などと書いてある。それは、こっことぼっさんが楽しいとか面白いと思った物だ。

 紙を開いていく中で、成海の表情は緩んでいく。そこへクラスメイトが集まり、賑わいが出来る。それは、こっこがイマジンし、行動し、それが幸せな形となった瞬間だ。
 ここは温かくて、そして感動的なシーンである。ぶっちゃけ、こっこたちのおかげで成海が笑顔になるシークエンスだけでも、この映画を見る価値があると言っていい。

(観賞日:2015年9月20日)

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