『しつけ』という言葉への違和感
こんにちは
みんなは『しつけ』って言葉に違和感を感じますか?
よく「しつけが悪い。」って言葉を耳にすることがあります。会社の上下関係でも親同士の会話でも。これって、誰が誰に対しての発言なんですかね?誰が何を評価した発言なんですかね?
結論から言うと、僕は『しつけ』という言葉に違和感を感じる人間です。僕は28歳で嫁と周りに支えてもらいながら、2歳の娘を育てています。仮にもし、誰かに「しつけが悪い」と言われたら、何でどんな権限で、あなたにそんな発言ができるんだろうと思ってしまいます。
僕はこれまで、娘をしつけているなんて思ったことはありません。それは僕も教えてもらうことが多いからだと思うし、娘と一緒に楽しんでいるからだと思います。
『しつけ』と言う言葉の目線は親の目線です。もっと言えば、親の教育を評価する社会あるいは第三者の目線かもしれないと感じてます。
例えば、28歳にもなって僕が誰かに「しつけがなってないなぁお前は」と言われると親も一緒に否定された気持ちに僕はきっとなってしまうでしょう。何でどんな権限で、あなたが知りもしない僕の親を否定できるんだと思います。正直な話、何様のつもりで人を見下して評価してるんだと思ってしまいます。世の中、完璧な人間なんていません。
ここでもし、代わりに付き切りで指摘したしつけについて、教育してくれるのならまだ口に出したことは分かります。ただ多くは言うだけ言って何もしないのがセオリー。そんな人のしつけと言う言葉に対して、違和感を感じるのは当然だと思いませんか?
しつけは誰から目線の言葉なんですかね。
教育を受ける当事者自身の気持ちや思いがないがしろになっていると感じるのは僕だけですか。
しつけってなに?
Wikipediaを読んで、
なぜ僕がしつけと言う言葉に違和感を覚えるのか分かりました。
それは、「おしつけ」だから。
こうあるべき、そうするべきだけを語り。なぜ?の部分が抜き落ち形骸化した形で、こーしろあーしろ言われたら納得できないよね。
そのおしつけは、日本の古いしきたりで現在のライフスタイルにあってるの?もし、日本が亡くなったらどうするの?そんな事を考えるとしつけって必要なのかなと思う。
人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など習慣に合った立ち振る舞いができるように訓練することはその環境で都度変わる、196カ国余りある国で、それぞれの文化がある。相手を承認していける器が、これからは必要になってくると思う。
大切なのはしつけじゃなくて
心の部分を育む事なんじゃないかなと思う。
相手はどう思ってる?自分はどう感じてる?ちゃんと思いやりと節度を持てば、しつけなんて後からお釣りがついて勝手に学んでいくんじゃないかな?
しつけって言葉がどうも好きになれないお話でした。
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