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短編146.『五階以上』(1/4)
通勤途中でいつも目の端に映るだけの何気ないビルでもよく目を凝らして見れば、幾らでも奇異な点は見つかる。
昭和後期に流行ったのであろう青黒いタイルを貼り付けたビルだった。一階には派手な看板の格安酒屋が入っている。人々はそちらに目を奪われ、そのビルの印象は決まる。「格安酒屋のビルだ」と。マーケティングの勝利、という他あるまい。
しかし、何の気まぐれか二階以上に目をやると、そこには異界が広がっている。ーーー人の世にあって、人あらざる者が住む魔窟。それはまぁ言い過ぎかもしれないが、明らかに現代とは異質の佇まいを見せていた。
窓という窓には、白が埃をかぶったような色合いの古びたカーテンがかけられ、何窓かに一窓、開かれたカーテンからは年代物の洋服が吊るされているのが確認出来る。
古着屋の倉庫だろうか。レトロ感を売りにした?それにしてはあまりにも洋服のデザインが古びていたし、生活臭が漂っていた。
スマートフォンでビル全景の写真を撮っているうちに、私はエントランスをくぐっていた。猫をも殺す、という好奇心がそうさせた。真夏で真昼の今でさえ日の差し込まないビルの内部は、外とはうってかわって冷ややかだった。
中に入ってみて分かったのは、どうやらここはアパートやマンションの類ではなく商業ビルのようだ、ということ。入り口に貼り付けられたテナント表記は一階に格安酒屋の名があるだけで、それ以上の階のネームプレートは全て抜き取られていた。外されてからは随分と日が経っているらしい。埃が何層にも渡って溜まっていた。
2〜5Fの空欄を眺めているうちに奇妙なことに思い当たった。急いで先程撮った写真を確認する。一、二、三、…六、七。縦に連なる窓の数は七つあった。しかし、目の前のテナント表記は五で終わっている。
ーーーなんだこれ。
もしかすると、それ以上先はビルオーナーの住居になっているのかもしれない。あまり深く考えず、エレベーターの上昇ボタンを押して待った。エレベーターはやってきた。ーーーということは、二階以上に用がある人間がいることの証明だろう。開いた扉の中から埃とも塗料とも違う、鼻をつくような臭いがした。匂いは記憶を惹起する、というが何の記憶とも結びつかない香りだった。
エレベーター内部に乗り込み、階数ボタンを思案する。洋服の吊るされた窓は三階だった。だから、三階のボタンを押した。階数ボタンは点灯しなかった。
「その階には止まりません」と機械的な声が言った。
ーーー洋服が吊るされているのに?
一つ下のボタンを押した。
「その階には止まりません」と機械的な声が言った。
仕方なくエレベーターの階数ボタンを改めて見る。五階までしかなかった。外から見た時には、そして写真には確かに存在した六階、七階へはどう行くのだろう。五階から階段?ひとまず、四階を押してみる。
「その階には止まりません」と機械的な声が言った。
残されたボタンは一つしかなかった。五階。押す。点灯した。エレベーターは上昇を始めた。エレベーターに乗って、こんなにも心拍数が上がるのは初めてだった。天井付近に付けられた階数ランプが点灯と消滅を繰り返すたび、好奇心が恐怖心に塗り替えられていく様が手にとるように分かった。
*
(2/4)につづく
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