短編146.147.148.149『五階以上』(まとめ読み用)
通勤途中でいつも目の端に映るだけの何気ないビルでもよく目を凝らして見れば、幾らでも奇異な点は見つかる。
昭和後期に流行ったのであろう青黒いタイルを貼り付けたビルだった。一階には派手な看板の格安酒屋が入っている。人々はそちらに目を奪われ、そのビルの印象は決まる。「格安酒屋のビルだ」と。マーケティングの勝利、という他あるまい。
しかし、何の気まぐれか二階以上に目をやると、そこには異界が広がっている。ーーー人の世にあって、人あらざる者が住む魔窟。それはまぁ言い過ぎかもしれないが、明らかに現代とは異質の佇まいを見せていた。
窓という窓には、白が埃をかぶったような色合いの古びたカーテンがかけられ、何窓かに一窓、開かれたカーテンからは年代物の洋服が吊るされているのが確認出来る。
古着屋の倉庫だろうか。レトロ感を売りにした?それにしてはあまりにも洋服のデザインが古びていたし、生活臭が漂っていた。
スマートフォンでビル全景の写真を撮っているうちに、私はエントランスをくぐっていた。猫をも殺す、という好奇心がそうさせた。真夏で真昼の今でさえ日の差し込まないビルの内部は、外とはうってかわって冷ややかだった。
中に入ってみて分かったのは、どうやらここはアパートやマンションの類ではなく商業ビルのようだ、ということ。入り口に貼り付けられたテナント表記は一階に格安酒屋の名があるだけで、それ以上の階のネームプレートは全て抜き取られていた。外されてからは随分と日が経っているらしい。埃が何層にも渡って溜まっていた。
2〜5Fの空欄を眺めているうちに奇妙なことに思い当たった。急いで先程撮った写真を確認する。一、二、三、…六、七。縦に連なる窓の数は七つあった。しかし、目の前のテナント表記は五で終わっている。
ーーーなんだこれ。
もしかすると、それ以上先はビルオーナーの住居になっているのかもしれない。あまり深く考えず、エレベーターの上昇ボタンを押して待った。エレベーターはやってきた。ーーーということは、二階以上に用がある人間がいることの証明だろう。開いた扉の中から埃とも塗料とも違う、鼻をつくような臭いがした。匂いは記憶を惹起する、というが何の記憶とも結びつかない香りだった。
エレベーター内部に乗り込み、階数ボタンを思案する。洋服の吊るされた窓は三階だった。だから、三階のボタンを押した。階数ボタンは点灯しなかった。
「その階には止まりません」と機械的な声が言った。
ーーー洋服が吊るされているのに?
一つ下のボタンを押した。
「その階には止まりません」と機械的な声が言った。
仕方なくエレベーターの階数ボタンを改めて見る。五階までしかなかった。外から見た時には、そして写真には確かに存在した六階、七階へはどう行くのだろう。五階から階段?ひとまず、四階を押してみる。
「その階には止まりません」と機械的な声が言った。
残されたボタンは一つしかなかった。五階。押す。点灯した。エレベーターは上昇を始めた。エレベーターに乗って、こんなにも心拍数が上がるのは初めてだった。天井付近に付けられた階数ランプが点灯と消滅を繰り返すたび、好奇心が恐怖心に塗り替えられていく様が手にとるように分かった。
*
エレベーターの内側は明るかった。扉の内側だけが明るかった。その明るさは相対的なもので、実際はだいぶ暗い。しかし、開いたドアの数メートル先が闇に閉ざされていることによって、このエレベーターの中は漆黒の無重力に浮かぶ宇宙ステーションのように明るかった。
スマートフォンのライトだけを頼りに五階のフロアに足を踏み入れる。背後でエレベーターは閉まった。そのまま下降していく音がした。振り返る気にはなれなかった。目の前の暗闇から目を逸らすのが怖かった。
床には段ボールや洋服、木材などが転がっていた。そのどれもが長い年月そこにいた証として埃のヴェールを被っている。少しずつ暗闇にも目が慣れ始めると、今いるここは”細長い通路”だということが分かった。外側から見た限りでは結構、横長のビルであったが、このフロアには一本の通路しかない。ライトで両壁を照らすも扉らしきものはなく、同じ色のペンキで塗られた壁面が奥まで続いていた。
考えようによっては贅沢な造りである。通路の幅が二メートル少々だとすれば、その横には左右に十倍ほどの何もないスペースが広がっていることになる。試しに壁を軽く叩いてみる。古井戸のような反響があった。多分、壁の向こうは空洞なのだろう。足元をライトで照らしながら、ゆっくりと奥へと進む。時折、横を照らす。壁は壁だった。どこにも空洞へ入り込む為のドアは無かった。
足元や壁を照らしていたライトを正面に向けた。そこには”顔”があった。暗闇に浮かぶ一対の瞳と目が合った。私の叫び声が廊下に木霊した。
*
ーーーどのくらい気を失っていたのだろう。
五分も一時間もこの空間では何の意味も持たないように思えた。付けっぱなしのライトが眩しかった。顔についた埃を払って立ち上がる。目の前のマネキンと目が合い、もう一度驚いた。
マネキンの奥には鉄の扉があった。錆びて動きが悪いノブを回し、体重をかけて手前に引く。上に登る階段がそこにはあった。
*
割としっかりとした造りの階段だった。非常階段のようなものを想像していたが、真逆だった。擬似大理石のような色合いで、踏み抜く心配も無さそうだった。
どういう仕組みなのかは分からないが、一度気を失ったことで逆に気が強くなったように思える。ーーーこの先に何が待ち受けていても蹴り飛ばしてやる。そんな気分だった。人体とはえてして不思議なものだ。
階段の最上段には、かつて扉があったのだろう、次のフロアへの入り口が闇に口を開ける獅子が如く空いていた。エレベーターには表示されていない階。6F。最終階であろう7Fへと続くフロアだ。
なんだかRPGの主人公にでもなったような気分だ。七階にはラスボスが待ち受けている。セーブポイントはあるだろうか。
六階はワンフロアぶち抜きで広い空間が広がっていた。何もない。いや、あった。その空間の真ん中辺り、そこにはソファと応接テーブルが置かれていた。しかし、それだけだった。がらんどう。
近寄ってスマートフォンのライトを当てると、奇妙なことに気付いた。テーブルの上には聖杯のようなものが置かれている。中身は…半分ほどが満たされていた。グラスの縁を指でなぞる。指先は湿った。それほど永く放置されている訳ではないことが分かった。…分かったところで、身に迫る危機は増すだけなのだが、恐怖心は好奇心に打ち負かされていた。ソファの窪みを触る。まだ仄かに温かい。
ーーーいる。
そう思った。疑念は確信へとその容貌を変えた。朧げな月が朝日にその位置を取って代わられるように。
この階に隠れるような場所は無かった。ライトで四方を照らすも空虚がこちらを見返すだけだった。
上の階への階段はすぐに見つかった。
*
ーーー遂にここまで来た。
妙な達成感と高揚感がそこにはある。今自分の顔を鏡で見たのなら、私立探偵の面持ちをしていることだろう。もしくは、獲物を追い詰めるハンター。押し着せられそうになる恐怖心は既に脱ぎ捨てられている。私はライトを使ってこのフロアの全容を調べることにした。
最上階であろう七階は、デパートの屋上のようだった。昭和の時代に流行ったであろう造り。パンダの乗り物やUFOキャッチャーにメダルゲーム。百円玉を入れると小さな人形がおみくじを運んできてくれる占いマシーン、柵で囲われたエリア内を走る汽車。それらは全て朽ち果ててはいるが、今でもコインを入れれば動き出しそうな気配があった。
なんだかとても懐かしい気持ちだ。幼かった自分が目の前で遊んでいるような不思議な錯覚を覚える。屋上遊園地になど行ったことはないのだが。
しかし、このビルの五階以上は何の為に存在しているのだろう。通路と空間とミニ遊園地。その三つに何の脈絡もないが、全てがここに至る為の道筋のようにも思える。
本来ならデパートの屋上にあるような遊具が、ビルのワンフロアに移されているのは奇妙を通り越して悪趣味だった。日に照らされて在るべきものが影に在る。右と左、上と下、森羅万象が反転した世界にいるみたいだ。
もしかするとこれは夢で本当の私は、まだ五階で気絶しているのかもしれない。頬をつねる。そんなことはなかった。
ーーー聖杯を傾けていた者の正体を暴かねばならない。
このフロアには私以外の誰かがいて、今この瞬間も息を潜めてこちらを見ているはずだ。私は一つ一つと遊具の確認を始めた。
ーーーいや、そもそも私はこのビルに何をしに来たのだっけ?
心に手を入れ、探ってみる。確たる理由は何一つ見つからなかった。ただの好奇心か覗き見根性でしかない。結果、真っ暗なフロアで誰とも分からぬ者と対峙する羽目になっている。ゴールは何だろう?そいつを倒せば良いのか?人生はゲームほど明確な目的意識など備えてはいない。一秒前があって一秒後がある。ただ、その繰り返しだった。
*
“そいつ”は五つ目の遊具を探索している時に見つけた。それは、アーケードゲーム機の影にいた。身の丈は百センチほど。小学一年生くらいの身長だった。
よく知った顔だった。かつて、と付けるべきだろう。”顔”は全てに似ていた。男にも女にも。あらゆる特徴がそこにあり、同時にそのどれでもなかった。
“顔”はこちらを見上げたまま微動だにしなかった。よって私も話しかける機会を失ってしまった。そもそも何を話せば良いのだろう。
「久しぶり」か?
「あの時はごめんね」か?
「”あれ”はそっちにも非があったと思うよ」か?
罪の総体、とでも呼ぶべきだろうか。私がこれまでの人生で犯した大小様々な犯罪の、いや、大部分は犯罪とも呼べないほどの些細な日常の出来事だが、その被害者の顔だった。
「僕のこと覚えてる?」と”顔”が言った。くぐもり、反響し、地の底から響いてくるような声だった。
それは子どもの頃、川に突き落とした同級生だった。
「アタシのこと覚えてる?」と”顔”が言った。
それは若い頃、同棲していた女だった。借りた金を返さず、そのままにしてある。
「俺のこと覚えてる?」と”顔”が言った。
これは高校の先輩で、酔っては殴り飛ばした。
「私のこと覚えてる?」
バイト先の店長。在庫の万引きか?
「ウチのこと覚えてる?」
えっと。こいつは確か…クラブで?
見覚えのある顔も記憶が掠れた顔も、あらゆる顔が「覚えてる?」と言う。覚えている訳がない。一つ一つの罪を自覚してその度に背負っていたら、身が持たない。あとは狂うしかなくなる。
「私のこと覚えてる?」
紛れもない動物の顔だった。鶏。今までどれほどの鳥肉を食べてきたと思っているのだ。
罪の自覚、それは加害者にこそ少ない。生きていれば必ず傷つける。例え、そのつもりはなくとも。生き抜く為には仕方ない、と割り切らなければ、この世は渡っていけない。洗っても落ちないくらい真っ黒な手。長年、整備工として働いてきた場末の工場主の如く。言い訳か?
「僕のこと覚えてる?」
「私のこと覚えてる?」
「俺のこと覚えてる?」
「アタシのこと覚えてる?」
声は合唱のように耳に反響する。秋の始まりを告げる虫たちの鳴き声みたいに重なり合い、ズレて、また何層にも連なる。
頭がどうにかなりそうだった。もしかすると、もう”どうにか”なっているのか?ある種の精神病患者が視、聴く、具体性はないが切迫した”誘い手”に掴まれているのかもしれない。
「僕のこと覚えてる?」
「私のこと覚えてる?」
「俺のこと覚えてる?」
「アタシのこと覚えてる?」
気を失ってしまいたかった。失神したかった。この場から逃れられるなら何でも良かった。しかし、私の内なる神は先刻既に一度失われており、もう失くすべきものは残されていなかった。
「僕のこと覚えてる?」
「私のこと覚えてる?」
「俺のこと覚えてる?」
「アタシのこと覚えてる?」
繰り返されるその言葉は、蚊取り線香のように渦を巻く。蜷局(とぐろ)を巻く。大海の渦潮のように何もかもをも呑み込んでいく。
日常的な言葉も塗り重ねられるうち、宗教的な色合いを帯びてくる。それは言葉の意味も形も響きも変えて、人の世に生きることの贖罪と生きて在ることへの根本的な疑問を提出する。
伽藍から響く真言。
それは罪を注(そそ)ぐものなのか、それともその罪を雪(そそ)ぐものなのか。
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