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短編250.『尾行』(下)

 閉店した串カツ屋の前に差し掛かった時だった。男は突如として振り返り、私に向かって一直線に歩いてきた。それは今までのゆったりとした歩速からはかなりの隔たりがあった。歌舞伎メイクの顔が刻一刻と迫ってくるのは、なかなかの恐怖感だ。

「なんで着いて来なさるのかね」と男は言った。
「は?いや…別に…俺、歩いてるだけだし」
「駅からずっと気付いていたよ」
 男は左肩を滑り落ちるドレスを直すような仕草をした。
「いや、変な格好してるし」
「…変な格好?それであなたに何か迷惑をかけたのかね」挑発的な口調だった。端的に言えば、ナメられていると感じる、あの感覚。
「…目障りなんだよ」
「目障りなのに、わざわざ後ろをくっついて歩くのかい?興味津々じゃないか」

 先程飲んだ酒によって赤く上気した頬に、追加の血液が流れ込んでくる。
「うるせぇな…」
「本当は君だって、こうして生きたいんだろう?」男の声色が変わった。
「そんな格好、真っ平御免だわ」アスファルトに唾を吐く。永遠に吸い込まれることのない液体は地面の上で泡立っていた。
「格好は関係ないさ。私の体現する”もの”に心惹かれているということなんじゃないか」
「…。」ーーー苛々するな。なんだコイツ。
「随分と窮屈に毎日生きているんだな君は。酒を呑むくらいしか憂さを晴らす術を知らないんだろう」
 それは脅迫というよりは目の前で囁かれる殺害予告だった。私の今まで生きてきた人生への。

 私の拳は男の左頬を的確に捉えていた。男は派手派手しく宙を舞った。その勢いはガードレールにぶつかって止まるまで、スローモーションのように私の目に映っていた。拳に赤と白の色が付いている。それが燃える怒りに油を注ぐ結果となった。ガードレールに手を掛けて起きあがろうとする男の指を足で踏みつける。男は悲鳴を上げた。その口、目掛けて靴の踵を振り下ろす。二度、三度と。男の顔下半分は紅白のめでたい様相に変わっていった。崩れ落ちた男の背中に踵を打ちつけ、何かを叫ぶ。それがどんな言語、どんな形容、そしてどんな意味を持っているのかすら、もう自分では分からなかった。怒りが口をついて喋っていたに過ぎない。地面の斜傾に合わせて血が流れていく。それは先程私の吐いた唾を巻き込み、排水溝へと向かっていく。私は男の髪の毛を掴んで、頭を起こし、何度も何度も拳を叩き込んだ。

          *

 我に返った時、私は二人の警察官に羽交い締めにされていた。暴れる腕先はただただ赤く染まっていた。地面に押さえつけられ、後ろ手に手錠をはめられる。低空から横目で眺めるパトカーの赤灯が目に眩しい。荒い息を整えるように呼吸する。もう片方の目の端では男が別の警察官によって介抱されている。介抱、というよりは救命措置だったのかもしれない。

 空を割るようなサイレンを響かせ、救急車が到着した。それが合図だったかのように私は立ち上がらされ、パトカーに向かって歩かされる。抵抗する気はなかった。一仕事終えた後の虚脱感だけがあった。

 パトカーの窓から救急車を眺める。ストレッチャーで運ばれていく男は、あちこちが破れてはいたが、仕立ての良さそうなスーツを着ていた。喘ぐように呼吸するその横顔は、どこにでもいる初老の男性だった。勿論、血の跡を拭い去れば、の話だが。

 そこには歌舞伎のようなメイクが施された形跡も、ハリウッド女優御用達のドレスも無かった。

 ーーー私は一体、誰の何を殴ったのだろう。

 ルームミラーには歌舞伎役者のような男が映っていた。


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