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短編333.『オーバー阿佐ヶ谷』33

33.

 少し部屋が暗くなった。太陽が雲に隠れたのだろうか。それとも私の心が翳っただけなのだろうか。電話越しの声は途切れ途切れで、どこか建物の中にいるような反響音が混ざっていた。

「会えませんか?」と真妃奈は言った。
 通常のシチュエーションなら諸手を挙げて飛んでいくところだが、今日はどうも”その気”になれなかった。
「逆に今どこなんだ?」儀礼的に訊ねる。
「なんだか怖くて。今朝から実家に戻ってるんです。北区の桐ヶ丘の団地なんですけど」
「へえ、団地育ちなんだ。羨ましいね」
「馬鹿にしてるんですか」
「いや、ラッパー憧れの生誕地、それが〈団地〉だよ。誇りを持った方がいい」

 少しだけ沈黙の時間があった。電話を介すると相手が今どんな顔をしているのか分からないのがもどかしい。泣いているのだとしたら、行かなければなるまい。それが昭和の男の矜持だ。
 しかし、今更行ったところでどうなる?怪物はもうその場にはいない。捕らえた、というのであればまた話は変わってくるが。自慢されるか、事細かに会った時の詳細を三〜四時間かけて語られるかのどちらかだろう。それを聞いたところで私が怪物に会えるという保証はない。
 それより今はただ、”ジョイント”によって創り出されたドープなこの気分に浸っていたかった。

「それで…来てくれますか?」
「まー、誰かに原付借りれりゃあ三〜四十分くらいで着くだろうな」
「それじゃあーーー」
「考えとくよ」
「待ってくださいよ!来ないつもりでしょ」
「行くよ。歩いて。多分、夜更けには着けると思う」
「怖いんです。それになんだかとても淋しいんです。馬龍丑。さんの顔が今とても見たいんです」そこで女優の声色が少し憂いを帯びた。「女はね、男より穴の空いてる数が多いから寂しがり屋さんなの」何処かしら色仕掛けを思わせる声のトーンだった。何かにつけ、女は色仕掛けだ。まぁ嫌いじゃない。
「俺も怖いんだよ。外では”マトリ”が見張ってる気がしてならないし、クスリが切れちまって、左右の鼻の穴も随分と寂しそうだ。早く”コーク・ザ・スノー”さんの顔が見たいよ」
「もういいです!マジ使えない!」

 電話は切れていた。いつだって電話は向こうに切らせる。それが紳士のルールだ。アッシーメッシー俺ラッパー。

          *

 かりそめの”やる気”を呼び起こす為に、冷蔵庫から五百ml缶のビールを取り出して、プルトップを起こす。

 ーーーよし。これで原付の線は消えた、と。

「悪りぃ。ビール飲んじゃってさ。今日は無理だな」これで良かった。アーティストの系譜に繋がる言い訳としては抜け目がなかった。ただ、広大無辺な心の片隅に三ミリだけ存在する”良心”と呼ばれる部分が疼いた。もしくは、”下”心が。

 灰皿で先端を潰されたまま、吸われるその時を待つ”ジョイント”を拾い上げる。

 ーーーこいつで足腰までブリッブリッになっちまえば。

 台所の片隅に転がっていたマッチを手繰り寄せる。それは昨日の西麻布のバーのものだった。洒落た横文字とカクテルのロゴが描かれている。
 ーーー「君たちも東京という怪物に呑み込まれないように気をつけた方がいい」小牧亨のやや低めの声が耳の奥に蘇る。

 “ジョイント”をしまい、煙草に火を点けた。缶ビールを台所のシンクへ逆さまに置く。

「くそっ!」と私は言った。

          *

 私はアイスバーグ・スリム『PIMP』を掴み、バッグに押し込んだ。漂う最後の白煙を見送ってから換気扇を消した。部屋の照明を落とし、ブーツに足を入れる。紐を締め上げ立ち上がる。ふと思い立ち、ディオールの香水を空中散布し、全身で浴びた。これで闘いの準備としては完璧だった。”男”が整った。
 玄関を開け、そして後ろ手に鍵を鍵穴にぶっ刺した。

 女の、小娘の、真妃奈の手練手管にハメられた訳じゃない。ーーー断じて。ハメるのはこっちだ。ーーーいつだって。

 股、おっぴろげて待ってやがれ。



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