短編121.『音に染みついた体臭』
その夜の彼は音楽そのものだった。
フロアに向けられたスピーカーを通して彼の体臭が撒き散らされている。そんな演奏だった。肉体は雲散霧消して場の空気に溶け、ステージの上には音だけがある。そんな状態だった。
もし子どもがこの演奏を聴いていたら、その後一生涯の運命を決定させられてしまうだろうと思うような舵取りを以て、トランペットを吹いていた。
フランス革命を描いたドラクロアの自由の女神、沈みゆく戦艦と運命を共にする海軍士官。彼の演奏はそのようなイメージを喚起させるようなものだった。
誇りと、悲壮を斬り裂く勇壮さがそこにはあった。
*
普段、ライブ後に晴れた顔を見せることのない彼の顔に笑みが浮かんでいた。ーーーそれがどんなに良い演奏だろうと、不満を挙げればキリがない。そういうプレイヤーだった。いつもしかめ面で下を向き、褒められたところでそれを額面通りに受け取ることを良しとしない、そんな男。その男の顔に笑み。普段を知る私も嬉しくなってしまった。
「何かが降りて来たんだ」と彼は言った。「こんなこと初めてだよ。耳に聴こえる音に驚いて、指先を見たら確かに自分の指がその通り動いているじゃないか」今日に限って饒舌だった。「分かったんだよ。今まで頭の中でだけ鳴っていた理論を演奏する方法が。これからは毎日このやり方でプレイ出来るかと思うと、音楽の神に感謝したいくらいだね」
彼はメンバーと肩を組み、客とテキーラを煽り、投げ銭の取り分をみな店に寄付した。
*
翌朝、彼の訃報に接した時、さもありなん、と思った。
完璧なものを創り上げてしまえばあとはもう死しか残ってはいない。
ただ、普段の彼からは考えられない行動づくめの、それほどまでに愉快な夜だったと思えば、少しだけ救われた気持ちになる。
私にはまだ当分先のことになりそうだった。
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