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短編202.203『【上/下】に反映された私の心』(まとめ読み用)

 私が四階のエレベーターホールに着いた時、肝心のエレベーターは一階にいた。下のボタンを押し、先程届いたメールをチェックする。くだらない広告メールが三通。私はゴミ箱のアイコンに触れた。この世を飛び交う情報の97%は広告が占めているに違いない。誰も彼もが「私から買え」と胸ぐらを掴む。暴力的な世の中だ。全ての広告人はすべからくもう一度、『北風と太陽』を読み直した方が良いのだろう。

 ーーー「こんなことも出来ねぇのかよ。無駄に歳喰いやがって」

 先程の叱責が胸を締め付ける。まだ年若いクライアントにいいように言わせてしまった。叱責というよりは罵倒に近い。三十近く歳の離れた奴に人間性を否定されたような心持ちがする。私ももう少し若ければ殴り合いになっていたことだろう。血の海だ。女子社員の悲鳴。ひっくり返るデスク、振り上げられたパイプ椅子。ーーーふん。命拾いしたな馬鹿野郎。今の私には守るべき地位がある。窓際の小さな席。満期の退職金が出る定年まで、それは死守されなければならない。

 エレベーターが上昇してくる音が聞こえ、私は顔を上げた。

 そこには大きな口を開けた怪物がいた。というより、怪物の口はエレベーターそのものだった。中と外を隔てる扉が開く。重い音だ。この世とあの世を仕切る関門の開門。重い音がしない訳がない。私は二歩後ろに下がった。

 上下合計八本の鋭い牙からは透明な液体が滴っている。それはねばつき、なんだかいやらしい。怪物の呼吸の度に私の髪は前後に揺れた。観察は大事だ。例えそれが夢か幻の中の出来事であったとしても。私は頬をつねった。入れた力の分だけ痛かった。

 ーーーボタンを押し間違えたか。

 図らずも私は先程、下を押した。当たり前だ。帰社する為には一階に降りなくてはならない。でもそれは【上/下】のボタンではなく、【天国/地獄】へのボタンだったのかもしれない。それに従い、怪物は律儀にも迎えに来た。私を冥界へと誘(いざな)う為に。そうだとすると、この怪物に罪はない。それは私の招いた当然の帰結だった。

          *

 唸り声が聞こえる。

 怪物の喉の奥から絞り出される低音。

 八十八鍵あるピアノの最左端二七.五Hzよりも低い、

 人間生理を超越した重低音。

 鼓膜よりも腹に響く野性。

 揺らされる臍下の皮。

 まるでクラブにでもいるかのような錯覚を覚える。勿論、行ったことはない。想像だ。尻の中でイッたことがないのと同じように。妄想だ。

 ーーー口の中に入れ、とでも言うのだろうか。

 俺自身が肉棒。間違いない。

 誘われているような気がした。なんだかとても良い匂いがする。脳が美女の首元の映像を盛んに映し出す。脳が敵に回ってしまえば人間はもうお終いだろう。

 ーーー食虫植物の出す芳香は、あるいは虫にとってはこう感じられるのかもしれない。

 掠れていく意識の端でそう思った。辛うじて。もしくは過労死する私の見る白昼夢、か。そういえば、この数日まともに寝ていない。クライアントに呼び出され、上司には叱責され、部下からは資料作成を押し付けられている。小間使い人生、ここに極まれり。もしこのまま生きても安楽な晩年は過ごせそうにもない。見たことも触れたこともない二千万円という数字が重く肩にのしかかる。定年を迎えたところで、退職金は借金のカタに取られ、老骨に鞭を打つように警備員のアルバイトが待っている。これ以上、AI社会が発達すればそれすらも残されていないかもしれない。そうなった時、スキルもない私はどう生きればいいのだろう。

 私は一歩、足を進めた。

 そんな現実よりはむしろ怪物の腹の中で安眠する方が幸せなのかもしれない。もしかしたら、どこか異世界にでも転生出来るかもしれない。私は昨夜買ったライトノベルの表紙を思い出していた。『転生したらJKでイケメンに無双』。十七歳の女子高生としてチヤホヤされる人生も悪くないのかもしれない。五十二歳、こうして妊婦でもないのに突き出た下腹を携えて生きる今に比べれば遥かに。

 私は一歩、足を進めた。

 怪物は一度口を閉じ、また開けた。喉仏に潤いが欲しかったのだろう。先程より艶やかに光る口腔内はどんな夜景よりも綺麗だった。かつてマンハッタンを一望出来るホテルに泊まった時(それは日本がまだバブル華やかなりし古代の話だ)、百万ドルとも称される夜景にその目を輝かせた連れの女は「この一部になりたい」と言った。「それより早くベッドへ」と私は答えた。その私はいまや怪物の口の一部になりたいとすら思っている。因果なものだ。それは廻り巡って命を拐う。

 私はもう一本、足を進めた。



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