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短編105.『モーターサイクル操業』

 膨れ上がった借入金は留まるところを知らなかった。生きる為にはなんでも呑み込む鯨みたいに目につく片っ端から申し込みを重ねた。雪だるま式に増長を続ける借金は、もはや自転車では廻せなかった。少なくとも千ccを越える大排気量のモーターサイクルが必要だった。

 ーーー貯金とはなんだろう?

 私には無縁の言葉だった。月初から身を粉にして作り出した売り上げは月末には何も残らず、毎月私だけが小さくなっていくように思えて仕方がない。景気回復を伝えるニュースは自国の出来事でありながら、何処か異国の他人事。財布には数百円しか入っていない。何処にいくあてもなくテレビを付けた。それはお笑い番組で、何一つ笑えなかった。

 借金の過払金が取り戻せる旨のCMが挟まれる。食えない職業と成り下がった弁護士が新たな金脈を見つけたが如く執拗に。表示された番号をスマートフォンに打ち込み、電話を掛けた。

          *

 翌日、指定のあった五駅先の弁護士事務所まで歩いた。暑い日だった。灰色のTシャツは黒く染まった。ジュースが飲みたかったが我慢した。

 ガラス張りの立派なビルだった。五基のエレベーターが絶えず稼働している、そんなビルだった。乗り合わせた数人の中、私だけがラフな格好であり、あとは皆、フォーマルないでたちだった。密閉された空間で自分の臭いだけが気になった。

 担当の弁護士は三揃いのスーツに身を包み、髪をグリスで固めていた。クーラーの効いた部屋での仕事ならではの格好。いつもランニング姿で工場の機械と格闘している私とは住む世界が違うように思えた。メンズ用のクリアネイルで綺麗に手入れをされた指先によって差し出された紙コップのお茶を飲んだ。久しぶりに水以外のものを飲んだせいか、舌が驚きを隠せないようだった。それは、もう会えないと思っていた人に再会出来た時の喜びに似て、どこか照れ臭くもあるようだった。舌が。

「端的に申しますと」と弁護士は言った。ーーーこれで救われる、と思った。「お客様の場合ですと、過払金の払い戻し請求は出来かねます」
「では、宜しくお願いします!」私は早急に深々と頭を下げた。
「え?」
「え?」弁護士の言った言葉を脳内でリピート再生してみる。ーーーお客様の場合ですと、少なく見積もっても数百万円が戻って参ります。…では、なかったか?「宜しくお願いします!」机を割る勢いで頭を下げた。
「大変残念ながら、お客様のケースですと過払金申請はちょっと出来ないんですよ」
「ちょっと?」
「いえ、全く」

 私はもう一杯のお茶を申請した。

          *

 弁護士事務所を出た向かいには花屋があった。季節色とりどりの花が並んでいる。それらは全て生きていた。茎を切られても尚、生きることをやめない、そんな花たちだった。

 ポケットに残る四百円で買える、小さな花束を買った。

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