文化に触れるということ


weekly music live@HIROO 

「人はパンのみによって生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉による」マタイ4

今の世の中どういう訳かあまりにも合理的な解を求めすぎる傾向にある様に感じる。

合理的に生きること、これは突き詰めればただ食べて命を繋ぐこと、に落ち着くのではないか。

この世に生まれて来た目的がただ、食べて生きるだけ。

人との触れ合いの間に生まれる愛情の温かさや、音楽や芸術作品に触れて品よく高揚する感情を楽しむことなど意にも介さず。

算数は必要としてもブラックホールの次元を解き明かさんとする高等数学には興味を持たない。
憂さを晴らすための産業歌謡曲は聴いても、壮大な世界観を想起させたり、誰かの生きる支えになるような創作曲は聴き流してしまう。

こんな話がある。
とある靴の営業マン2人がアフリカのあるエリアに派遣された。
1人は「ここはダメです。誰も靴を履いてません。靴は売れません」
そしてもう1人は「ここは凄い可能性があります。誰も靴を履いてません。きっとたくさん売れるでしょう。」

神は自分に似せて人を創られた。とある。

人には神に似た創造性が誰にも備わっている。そしてその創造性は、ただ食べるためではなく世の中に新しい価値をもたらさんとする、プラスαを生み出そうとするときに、品の良い高揚感とともに降りてくる。

だから人は、合理的な結果を出すための努力ではなく、新しい価値を創造するために踏み出す勇気に感動するのではないだろうか。

技術が発達し、生きるための仕事は一昔前と比べて、何分の1もの時間や労力で終えられるようになった。組織に迎合しなくても、個人で会社並みの結果が出せる時代にもなった。
好きな女の子と喋るのに、一昔前は親がいないタイミングを見計らって家の固定電話にかけたものだ。LINEがなかった時代はiモード問い合わせをしてメールが届いているかどうか確認しなくてはいけなかった。
合理化が進みすぐに結果が出せる時代になり、頭の中まで合理化至上主義に洗脳されてしまってはつまらない。殺伐とした世の中を助長してしまう。

余った時間を文化的なものに触れる時間に割いて欲しい。誰かが思いを込めて創作したものに触れ、感動してほしい。
その余った時間は、一昔、二昔前の人たちが望んでも手に入らなかったもの、生きるために諦めたもの、または手に入ると想像すらできなかったものだから。
そして、それがあなたの中に眠る創造性を覚醒させ、世の中に新しい価値を生むのだから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?