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【児童発達支援センターB園⑩】子どもたちの人生の可能性に向き合ったB園の先生たち

このnoteでは、女の子として生まれ、「ちいちゃん」と呼ばれて育ってきたかつての自分。男性として生き、「たっくん」と呼ばれ、福祉の専門家として働いている今の自分。LGBTQ当事者として、福祉の現場に立つ者として、「生」「性」そして「私らしさ」について思いを綴ります。(自己紹介もぜひご覧ください)
前回に引き続き、児童発達支援センターB園での私の学びについてお話しさせてください。今回も、DAIKIとDAIKIのお母さんにご協力いただきました。
★★これまでのB園の物語はこちらのマガジンからご覧いただけます★★

身体、知的または精神に何らかの障害のある子どもたちが通ってくる児童発達支援センターB園での経験は、私にとってその後のキャリアの土台となるものでした。

子どもたちの障害は内容も程度も様々で、保育士には療育の専門知識と経験が求められました。だから、乳児院から赴任したばかりの時期は、わからないことばかり。一緒のチームになった先輩(年齢は私の方が上です!)の保育士2人に助けられてばかりでした。

職員室では先輩2人に挟まれた形で私の座る椅子が配置されていました。いつも先輩の目が近くにあるのが最初のうちはイヤでした。でも、常に見守ってもらえることのよさにすぐに気づきました。

先輩たちから、仕事ぶりについて頭ごなしに否定されたり、強い言葉で叱責されたりすることは本当にありませんでした。療育には知識や経験は確かに必要だけれど、こうすれば必ずうまくいくという正解があるわけではありません。だから、私のような新人に対しても、「どう思う?」「まずはやってみて」という態度で接してくれたのでしょう。

先輩たち以上にお世話になったのが園長先生です。B園の園長先生は、療育の世界では有名な方で、異動が決まったときは「厳しい人だよ」と聞いていました。でも、実際に会ってみると、園長先生もやはり、保育者一人ひとりに自分で考えさせ、見守る人でした。

園長先生から学んだことはたくさんありますが、一番は、「目の前にいるのは、障害児ではなく、子どもだ」ということです。あくまでも一人の子どもとして、その子の可能性を広げることを大切にしていました。

例えば、言葉でうまく自分の気持ちや考えを表現できず、つい人を叩いてしまう子どもがいます。私たちは、その子が人を叩いてしまうことがないよう、その子の周りの環境を整え、支援します。しかし、それだけでは十分ではありません。叩いてしまうことはダメなことだと、その子に理解してもらうことも必要です。

障害があってできないこと、苦手なことがあっても、その子の特性を理解した上で、「ここまでなら、できるのではないか」と可能性を見通していくことも大切です。たくさんの時間をかけて、1つでもできることを増やしていくことで、その子が社会で生きやすくなるからです。障害があるから仕方がない、ではなく、この子がどうなればもっと生きやすくなるのか、そのために何ができるのかを常に考えているのが園長先生でした。

そうした園長先生のもとで、保育士たちは、目の前の子どものありのままを受け容れつつ、あってほしい姿をその子と一緒に目指そうとしていたと思います。

絵本も、ただ読み聞かせるよりも、音楽をかけてあげた方が集中できる子もいます。うまくいくときといかないときがあれば、それはなぜか、丁寧に見直し、考えました。

感覚過敏で「オランジーナ」しか飲めないという子、こだわりが強くて、青い色の服しか着ない子もいました。もちろん、オランジーナだけ、青い服だけでも生きていけます。でも、ほか飲み物も飲めた方が、ほかの色の服も着られるようになった方が、その子は社会の中で生きやすくなります。だから、時間はかかっても、オランジーナ以外のものが飲め、赤い服も着られるようになったときは、一つできることが増えたなとうれしく思いました。

障害者である前に、一人の人間なのだ。私たち福祉にかかわる者は、専門知識で、その人が少しでも生きやすくなるように支援し、人生の可能性を広げていく手伝いをしていくのだ。B園で学んだことは、今の私の土台なのです。

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【前シーズン「A乳児院」の物語も是非ご覧ください】

※私が「障害」を「障がい」と記さない理由は、こちらをご覧ください。


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