見出し画像

授業中に脳内思考が花咲いた日の話


いつの間にか、朝起きるときには足を曲げて腰を丸めて、寒さをしのぐ基本姿勢になっていた。
ああ、秋が静かにやって来たんだなって。
暑いよりも寒いが好きだから待ち望んでいた気温で、嬉しい朝が続いている。朝に飲む味噌汁は日本に生まれて良かったと心の底から思わせてくれるからね。



夏休みは終わって、大学の授業が始まった。案の定、抽選科目は8つ中3つ落ちた。倍率はどれも2~4倍だったから全落ちよりかはまだマシだと言い聞かせる。
とりたくもない授業を、単位稼ぎのために抽選に外れた単位分を補う如く受けることになるのはもう慣れた。


でも、そういう時にこそ、「この授業案外面白い」「この先生好きだな」と思えてくるから全く憎めないシステムだ。どこの大学にもあるだろうけど、共通教養や基礎科目ってなんでやらないといけないんだろうと思ってた。
思ってるだけで何も考えていなかったのは、決まりきった答えしか返ってこないだろうと、半ば諦めていたからだと思う。大学生は法学、建築、文学、経済、経営等などを学びたくて大学に行っているのにと。



よく授業中に、授業に関係ないことを考えているので親には授業料を返せと迫られてしまいそう。
今日は酷かった。
もはや、「大学で学んでいることって社会で働くときに使うことはできるのか、役に立つのか」とまで思考が大それてしまった。この時教授は、日本では古来黄泉の国がどうたらこうたらと世界の宗教について熱く語っていた。
もちろん、こんなねじ曲がったことを考えていたからあまり内容を聞いていないし覚えていないが、ノリと気合いでリアクションペーパーを書けるようになったのは、これまでの経験が物を言っていると感じる。


教授の話は不幸にも頭に入ってこないから、寝るよりはマシだと思い、この考えを深堀ることにした。
「社会で使えるのか、役に立つのか」
どこかで誰かが呟いていたことだけど、大学で学んだことの中で就職して活かすことができるのはほんの2%だけだと耳にしたことがある。
嘘か本当かはわからないし、情報源がどこか曖昧なのであくまで一つの意見として考えるとする。
だとすると、それも一理あるかもしれないと思った。


とは言っても、大学で自分の所属する学部の専門分野を授業で学び、勉強しているのは事実。法学なら弁護士や裁判官や検事、経営学ならコンサルタントや起業者など、学問に関連した職を手にする人が多い気がする、例外はあるとして。
じゃあ、前述した共通教養や基礎科目は何者だ。ここで行き詰まった時に、教授の話に耳を傾けるとマレーシアはイスラム教が主で宗教的に豚は食べれないやらなんたらと熱く語っていた。
やはり眠くなってしまうので思考に戻ろうと思う。



この授業の前に、これまたとりたくてとっていない授業を受けていた。その講義中、教授はこう言っていた。
「人は主観で物事を見過ぎている。だから、客観的に物事を見ることは本質を見抜くのには”最も”なのだ。」と。
授業内容には興味ない。ただ、この言葉と考え方は数式よりも歴史上の偉人たちの名前よりも脳裏に刻まなければならないと思った。


それを思い出したとき、大学って学問を学ぶ場所でもあるけれど、社会や人、物事や現象をどう見るかという方法論を学ぶ場所でもあるんだなと。きっと私たちが生きて行く上で困った時に、ふっと思い出せるように。
そう思うと、社会学を学ぶのは、当たり前を当たり前と思って社会の流れに流されるだけの人にならないため、人類学を学ぶのは、自分と異なる人種をむやみに排除、差別するような一片的な見方しかできない人にならないためだったのかと、腑に落ちた。



思いがけないとき、気が乗らないときにこそ、学ぶべきものは目の前にある。
でもそれは、目を少しでも離した隙にコロコロとどこかへ転がり落ちていく。そのくらい、何かを学ぶって"向き合う"ことなんだろうなと、個人的結論が出たところで思考を終えた。


授業は、半分終わったところだった。教授の言葉から自分が大事だと思った言葉だけを抜き取り、自分のものにすることに集中しよう。学びのヒントがここにもあるのかもしれない。
その時の私は、全く乗り気ではなかったから。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?