見出し画像

第十回「TARRTOWNの翻訳で感じたこと」~創作ノート~TARRYTOWNが上演されるまで


こんにちは!TARRYTOWN翻訳・訳詞・演出の中原和樹です。

昨年2023年の11月に上演したブロードウェイミュージカル「TARRYTOWN」の創作プロセスを徒然と書いてきたこのノートも、ついに第十回になりました。

最近は翻訳・訳詞についてを書いてきましたが、今回は総括的に、TARRYTOWNの作品全体を翻訳・訳詞して感じたことを書いていこうと思います!
今までは作業内容の開示的なものでしたが、今回は完全に私の感想ノートみたいなものです!笑



まず最初にマテリアル(台本や楽譜)が海外のエージェントから届いた際に感じたのは、

「量がめちゃくちゃ多い!!!!」

でした。笑

創作ノートの第一回、第二回でも書いたのですが、私自身がTARRYTOWNというミュージカルの台本や楽曲を知っていたわけではなかったので、最初の情報はサウンドトラックだったのです。

TARRYTOWNのサウンドトラックに収録されている楽曲は17曲。

昨年の2月に名古屋で翻訳・訳詞・演出をさせていただいた「パジャマゲーム」は22曲。

そう考えると、上演時間1時間40分ぐらいという情報がネット上にあったTARRYTOWNは、妥当な曲数に思えていました。
(パジャマゲームは二幕物で、2時間半ぐらいでこの曲数なので)

しかし、蓋を開けてみると、サウンドトラックに収録されている曲は全てではなく(よくあることなので、当たり前ですが)、全部で30曲ほど(!)でした。

この上演時間でこの曲数?・・・と思ったことを覚えています。


脚本の翻訳も進めながら訳詞を進めていたのですが、そうすると分かってきたことがあります。

上演時間に対しての曲数の多さがそれを表していますが、TARRYTOWNの作品内における芝居パートの分量が少ないのです。

お芝居の部分でストーリーが進み、登場人物の内面の吐露として楽曲が入り、楽曲内ではあまりストーリーが進まないことがミュージカルではよくあるのですが、TARRYTOWNの場合、

・楽曲でその人物のキャラクターや内面が描かれつつ
・出来事やストーリーも進み
・描かれている出来事への反応や対処によって、さらにキャラクターが見えてくる

という楽曲が多数ありました。

欲張りな楽曲が多いのです。笑

これは良い意味で、私はそういった「楽曲内でストーリーが進む」「楽曲内で出来事が起きる」曲が好物なので、その楽曲をどう訳詞するか、どう演出するか、わくわくしたのを覚えています。

お芝居部分でのストーリー展開だけではなく、楽曲内のストーリー展開、そしてそれによる登場人物の変化が大きい分、この作品を良い作品として届けるために、ストーリーと楽曲がどう繋がっていくか、どう二つを橋渡しするか、補完し合っている芝居部分と楽曲部分の密接な関係をきちんと構築することが必要だと感じました。

ちょっと大雑把にまとめすぎではありますが、言ってみれば2010年代のミュージカル作品的であるように感じたのも事実です。

楽曲がスピーディに展開されて、その中でも観客が飽きないような工夫がなされ、次の展開への期待が高まっていくようなイメージです。

もちろん、ずっしりしっかりとキャラクターの内面を描く楽曲も存在しますし、そのどれもがとても良い曲なのです。
(前回のノートに引用した、ブロムのHistoryという楽曲もそうです)

そういった楽曲たちがバランスよく配置され、三人の関係性が変化していく様と、三者三様の葛藤が楽曲によってしっかりと見えてくるというのが、この「TARRYTOWN」の特徴であり、素晴らしい作品である核となっているように思えます。



そしてもう一つの特徴といいますか、感じたこととして、楽曲内で描かれているキャラクターの心理描写・内面描写が簡潔ではないこと、つまり多様に捉えられる、ということがあります。

登場人物が行う作品内の行動に関して、動機やその人物の考えが、絡み合い、一見するとこうとれるが、よく考えるとこうも捉えられる、ということが多々あるのです。

解釈の余地が広いという言い方も出来ますし、その分、創り手に委ねられる部分や、見る観客の感じ方に任せられている部分が大きいとも言えます。

そのため、台本上のキャラクター描写だけではなく、楽曲上(つまり訳詞上)でどうやって歌詞をそのキャラクターの言葉としていくか、そしてその人物が感じている葛藤は何か、その楽曲内で起きる出来事に対して、キャラクターは何を感じ、何を目指すのか、そういった人物の深堀り・ドラマの深堀りという作業の割合が大きく、それは苦しく大変で、かつエキサイティングな時間でした。


比較対象として、「パジャマゲーム」の場合。
この作品では、物語としては芝居だけで完結しているものを、さらに楽曲で補強しているイメージでした。

パジャマゲーム自体は1950年代のミュージカルで、ストーリー仕立てのミュージカルの比較的初期の作品です。

1940年代半ばから後半では、アメリカ演劇界では成熟した良いリアリズム演劇の作品がかかり、物語としてのダイナミクスやドラマ性ではなく、人間そのものの内面・心理描写・葛藤といったものに焦点があてられた作品がヒットしていました。
(テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーといった劇作家の「ガラスの動物園」や「欲望という名の電車」、「セールスマンの死」といった作品はその最たるものです)

その中で創られた「パジャマゲーム」では、とても分かりやすくリアリズム演劇的な特徴が作品内に入れ込まれています。

簡単に言うと「楽曲に入る前に、その楽曲がどんな内容なのか、重複するような形で台詞ないし芝居で表わされている」のです。

例えばお芝居で「恋なんて馬鹿げてる!」と宣言した後に「恋なんてしない(I'm Not At All In Love)」という歌を歌ったり、「二度と嫉妬しないよ!」と言ったあとに「二度と嫉妬しない(I'll Never Be Jealous Again )」と歌ったり。

見ている人に向けて「これから歌われる曲は、この人物のこの内面・価値観・考えを示していますよ」と、きちんと提示されてから歌に入ります。
そうすると、観客としてはこれが何の歌かを知っている状態で、安心して歌の世界を楽しめるのです。

このような形式においては楽曲内で描かれている登場人物の葛藤や考え方・価値観はシンプルで明快、かつ明確であり、その内容にはあまり解釈の余地はありません。
その分、楽曲内での言葉遊びや韻の使い方、楽曲そのものの遊び心など、そういった部分に比重が置かれ、特に言葉遊びをどう作っていくかということを楽しみながら「パジャマゲーム」を翻訳・訳詞したことを覚えています。


こうして改めて思い返してみると、「TARRYTOWN」は楽曲内のドラマ性の繊細さ、層の多さ、そして捉え方の多様さという特徴があったので、翻訳・訳詞の作業における重点の比重として、イカボッド、ブロム、カトリーナの三者の「人物像」「関係性」「人生」ということずっと考えていたように感じます。

決してグランドミュージカルのような派手さはありませんが、三人の関係性が少しずつ、じわじわと変化していくことが中心に描かれており、その変化が次第に顕著になり、物語が転がっていき、進んでいくTARRYTOWN。

楽曲が多く、音楽のジャンルも多彩な中で描かれている人間の機微、それを日本語に置き換えてもしっかりと残せるようにということが、翻訳・訳詞という作業の中で一番肝要であったように思えました。



TARRYTOWNの翻訳・訳詞で感じたこと、そして特徴などを書いてみました。
次回もまた定期的にアップしていきますが、
内容はお楽しみということで・・・お待ちください。


中原和樹


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?