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鑑賞

短歌、俳句、川柳などの感想を載せていきます(随時更新)


満タンのじょうろ持つならこぼさないように手首を水兵にした/川村有史「ブンバップ」

誤植によって味わい深くなった文章、のような歌。セーラー服から突き出たたくましい腕が見えてくる。「手首を水兵に」なので手首そのものが水兵になっているのかも知れない。水だからそもそも水兵との相性はいいのだが角度の小さい海軍の敬礼も如雨露の持ち手を想像させる。

Suicaしか見たことのない従兄弟らにこわいでしょうと切符を見せる/草薙「うたの日」

不便、面倒臭い、アナログ等が一般的な感想だろうが主体はなぜか切符を知らない者にとって切符はこわいものであろうと思っている。自虐のためにおどけて言っただけかもしれないが、切符がこわいという発想が何よりもこわくて面白い。

つむじから漏れる悪魔の独り言/城水めぐみ「甘藍の芽」

自分の中にいる悪魔の声が外に漏れてしまうということだが確かにつむじは頭の中ではいちばん頭髪が少なそうな部位だ。しかしそれよりもちゃんと穴の開いている目耳鼻口などを差し置いてつむじから漏れるのはどういうわけか。そもそも悪魔なので声が物理的な音ではないのだろうか。ひょっとしたら悪魔が人間の内部にいるわけではなく外部からドリルのように回転してめりこんだ痕がつむじなのかもしれない。だからときどき痒くなるのか。

階段のとなりにエスカレーターがあって気楽ないきかた選ぶ/工藤吉生「沼の夢」

楽なのは間違いなくエスカレーターだが気楽はひとによって違う。自分ならどちらの行き方(生き方)が気楽だろう。

ぬいぐるみばかりつかんでいるせいで力うしなってゆくクレーン/工藤吉生「沼の夢」

実際はつかみにくくするためにあえて調整されているんだろうけどやわらかいものばかり食べてたら顎が弱くなる的な理論にすりかえられていて面白い。

ハンモックコーヒーの匂いが消えへん/雨華「arium」

匂いが消えへんというのはどちらかというとコーヒーがあまり好きじゃないひと目線の表現なのかな。珈琲ではなく普通にコーヒーなところとか。山の中で藤岡弘、に満面の笑みで勧められて仕方なく的な。何も考えずに読むとハンモックコーヒーというコーヒーがあるみたいで面白い。

だんだんと詐欺師の口調猫じやらし/雪花菜「arium」

猫じやらしは猫を遊ばせるのに使うからその名前がついているのだけど、どちらかというとキン肉マンでテリーマンが「手の中でもむとグニョグニョと這い出してくる」と解説していたことで有名だ。テリーマンと言えば初期の頃はいけすかないアメリカ野郎だったが途中から知的なうんちくお兄さんにキャラ変したことで有名だ。まさにだんだんと詐欺師の口調になっていく。

ビ・ビ・ビーフストロガノフの大爆笑/まつりぺきん「川柳EXPO」

大喜利、物真似、替歌は上手すぎるよりも多少強引なほうが面白い。文字数で言えばほぼ定型だが「・」を置くことで元歌に気が付く前にちゃんと元歌のリズムで読み始めることができ、ちゃんと「ビーフストロガノフ」の強引さを面白がることができる。

ゆったりと腕を広げるレスラーのそいつが必殺技だと気づく/長谷川麟「延長戦」

この空気感を拾ってくるのはすごい。知らなくてもわかる感じ。「そいつ」より「それ」のほうがわずかに発生する読みブレを除去できるかなとは思うんだけど字余りにしてまで「そいつ」感を出したかったというのもわかる。

打ち明ける優しい方のミッキーに/芳賀博子「髷を切る」

ミッキーマウスはこの世にひとりしかいないのでおそらくミッキー・ロークとミッキー・カーチスのことだろう。猫パンチのロークの方が何となく優しそう。八百長を打ち明けるのかも知れない。

思ったのち、すべての膜は、人間の暴力性以外の部分だと思い至る。/ツマモヨコ「膜質について」

超能力者が念写した思考をAIに文章化させたようなフリーペーパー。同じ工程をリバースすればえげつなくグロいものが出来上がるかも知れないのでやめておいたほうがいい。

夢の中素手でハルカスよじ登る/ぱんつっち「第二回あべのハルカス川柳コンテスト入選句」

あべのハルカスの良さを言っただけの忖度句が多い中、たとえ夢とはいえあべのハルカスに対する犯罪行為を詠んだのがあっぱれ。

夕さりに人魚の足を引き摺って車社会の故郷ははるか/山桜桃えみ「sankaku vol.2『曇りガラスの部屋』」

人魚なのに足を引き摺るという不思議な身体感覚。昼から夜に変わろうとしている時間帯の人間から人魚に戻ろうとしている瞬間をとらえたような。夕さりという古語が非日常性を演出。住み慣れない都会に移ってきたことや海に関係の深い場所に住んでいたことなどを幻想的に想像させつつも「車社会」で一気に現実へと引き戻す。

バラ園に薔薇ばかりみて薔薇のことわからなくなり空がまぶしい/江戸雪「わりかしワンダーランド01『銀色沈黙』」

大阪にちなんだエッセイや短詩を集めたアンソロジーより。薔薇という字に引っ張られてかまずはゲシュタルト崩壊のようなものをイメージさせられる。が、むしろバラ園(中之島バラ園であろうか)には数百種類もの薔薇がありスペイン人がくわえているアレしか知らない自分なんかが行こうものならたちまち薔薇の概念を見失ってしまう。逃げるように見上げた空がいつにも増してまぶしい。(余談だが自分は俳句を三年以上やっていてまだ歳時記を持っていない。歳時記を持っていない人間が俳句で結果を残せたら「おもろいな」といういやらしい思いもないことはないが「季語ばかりみて季語のことわからなくなり」そうで怖いというのが実のところだ)

君が無邪気に足をあげて笑う階段もう終わってたとしても/斌「ちゅるきら」

多くはわからないが足をあげて笑うということは階段に座って話をしているのか。表面上は階段という雑な場所で笑い話をできる距離感にある二人だが恋愛関係は事実上破綻している、と少なくとも主体は考えている。位置関係は外階段のようなところで下から数段目に君が座っていて主体は下から君と向き合うように立っている感じの景を想像。シンプルだが切なさがとても伝わってくる。

烏丸から歩いてきたの?遠くない?まだ何も始まってないのに?/寺村たこ「的野町『全ての案は口実である』」

何が始まっていないのかは書かれていないが烏丸という地名からおそらく祭などのイベントがある日でもないのに交通機関を使わず徒歩で待ち合わせ場所に現れた相手に驚いただけなのだろうが、そういう予備知識を持たずに読んでみると「わたしたちまだ何も始まってないのにそんな遠いところから歩いて会いにきてくれたの?」と、まるで電車も終わりタクシーもつかまらない深夜に恋人未満の相手が遠くからわざわざ会いにきたみたいで面白い。

ヒートテック一枚脱げばふるさとの訛りがいやに大きく響く/早川夏馬「おーさかのうた『おかん襲来』」

寒い地域から大阪に住む子を訪ねてきた母が着込んでいたヒートテックを脱いで「○▲×■△□●~(大阪は暑いねえ~)」などと北の訛りで言ったのだろうか。ヒートテックを脱ぐことと訛りが大きく響くことに物理的な因果関係はない(ヒートテックを頭からかぶっていたのなら別だが)が、長旅を経て子の部屋に辿り着いた母の安心感や開放感が伝わる。

夢で見た男がお前を絶対に赦さないと言ってそれから見ない/牛隆佑「鳥の跡、洞の音」

なぜ絶対に赦さないと言っているのか。赦さないと言ったくせに現れなくなった男を小馬鹿にしているのか。赦せないからこそ現れなくなったのか。赦さないと言われたから夢に見ないようになったのか。見なくなって良かったと思っているのか。それともすこし寂しいのか。夢で見た男がお前を絶対に赦さないと言ってそれから見ないということ以外なにもわからない。それが良い。

燃える音以外はやけに静かだな逃げ遅れかと指揮板ひらく/雨虎俊寛「FLASHOVER『灰掻き屋』」

火事現場で出火の原因などを調査する隊員にスポットを当てた連作の冒頭に置かれた一首。具体的なことは何も書かれていないが結句の「指揮板ひらく」だけで火事現場に到着したばかりの隊員の様子がわかる。悲鳴や助けを求める声ではなく、それらがきこえてこないことで得られる情報があるという専門職ならではの気付きが詠まれていて現場の臨場感が伝わってくる。

飼い方を知らない蝶が殖えてゆく心を診せて称賛された/瓊「同志社短歌十号『花茎の潤み』」

連作を通して生への不安やそれがときに嫌悪になってしまう危うさを俯瞰的に見ているような印象を受けた。「殖える」から感情が大きくなっていく原因が自らにあり「診せる」からそれが負の感情であり「飼い方を知らない」から大きくなっていく負の感情をどうすることもできないと読むことができる。そんな自分を認めてもらったことを嬉しく思ったのか皮肉に感じたのかはわからない。

きのうまでどう肩ならべ歩いたかわからなくなる手をつないだら/金沢青雨「またね」

ならんで歩くことはできるがどうやって手をつないだらいいかわからない、というのはある。この歌はまったく逆の発想で、いちど手をつなぐことに慣れると手をつなぐことでしか互いの距離感を保てなくなってしまう。手をつなぐという行為は結婚、夫婦、恋人、肉体関係などあらゆる親密度のメタファーとしても読める。

「自由」とは自由制作の画用紙を黒の絵の具で塗り潰すこと/海老「海産物取扱説明書」

どうして基本の色として白が選ばれるのだろう。光も何もない状態で見えるのは黒だ。何も無いということは不便ではあるが自由だ。妖怪人間も暗い音の無い世界で生まれた。明るく騒がしい世界ならきっとベムもベラもベロも生まれていなかった。自由制作とは自由を手に入れるための制作なのだろう。

無神経なひとになりたい 恋人とニトリでダンスパーティーしたい/ツマモヨコ「ひるねによるね」

わかるとわからないの波間を漂うような一連から、わかる寄りの一首。とはいえ「ニトリでそんなことするのは確かに無神経だよね」で通り過ぎることなかれ。主体はただ単にニトリで恋人とダンスがしたいわけではない。ダンスパーティーがしたいのである。当然、二人だけではダンスパーティーとは言えない。大勢の恋人を呼んで、かわるがわるダンスの相手をさせようというのだ。それは確かに無神経である。

踊り場をだんだん濃ゆく染めながら大雨がうちまでやってくる/末藤「棒『大雨がくる』」

踊り場を染めるのが雨であれば屋外の景だが屋外に踊り場がある家は共感できない。踊り場を染めるのが雲であれば屋内の景としても読めるが大雨が来てもさほど影響はない。そもそもなぜ「濃く」ではなく「濃ゆく」なのだろう。「濃ゆく」は関西の方言でもある。そこで「うち」も家ではなく関西で使われる一人称としての「うち」として読んでみると実際の景としても心象風景としても一気に臨場感が増した。

鹿の糞いくつか踏んだ感触が靴底つたってわが腹にしむ/畑中秀一「パンの耳⑦『ひとりの時空』」

糞と腹の相性が良いのは当然だが、そこに思いが至るよりも先に、糞を踏んだときのぐぬっとした感触と取り合わせる身体の部位として腹は動かないなと思った。出しすぎた歯磨剤の力点から作用点への流れを巻き戻すような感じ。

蜂蜜を塗って一晩待った朝クヌギの木にはゴキブリがいた/藤本嗣子「東京新聞 東京歌壇 2023年9月3日」

ゴキブリは昆虫なのでもちろん自然の中に存在するはずだがゴキブリと聞くとどうしても住居や飲食店など人間の生活圏をイメージしてしまう。カブトムシやクワガタムシを期待していたであろう主体(子供の頃の体験か)には余計に強烈な印象を与えただろう。

後の月母の夢としての私/興南高等学校「第26回俳句甲子園」

後の月は中秋の名月の翌月の月であると同時に満月の二日前の月でもある。かつて夢を追いかけていた母、これから夢を追いかけていく子の両方の想いとその継続性がたったひとつの季語でうまく表されている。

静寂にトマトがはち切れてしまふ/洗足学園中学高等学校「第26回俳句甲子園」

静寂とトマトがはち切れることの因果関係は無いが、沈黙に耐えきれず感情を吐露してしまうような様子をイメージした。破調だが五七五のリズムで読むことでトマトの皮が限界まで耐えていた感じが出る。

「かぶとむしだつそう」と書く日記かな/直井照男「読売新聞 読売俳壇 2023年8月8日」

そもそも何も悪いことしていないのに捕らえられた昆虫に対して脱走などという言葉を使うのは愛護なんちゃら的にどうなのよみたいな配慮が一切無く清々しい。普通はお年寄りっぽくなるはずの促音の大書き(つ)がこの句では逆に子供のわんぱくな字を想像させて面白い

月面へ手紙を送ることあらばそのやうにして投票箱は/髙良真実「角川 短歌 2023年8月号」

国民の思いの届かなさを月に手紙を送るという行為に喩えているというのが短歌的な読みなのだろうけど、真っ先に頭に浮かんだのはそういった理屈ではなく、あくまで見た目的に「確かに投票箱って月に手紙を送るためのポスト(装置?)っぽい」という感動だった。

一生に一度ひらけばじゅうぶんな蒼い扇を なんどもひらく/大森静佳「ヘクタール」

もったいぶらないということをもったいぶって言うおもしろい一字空け。蒼い扇の仰々しさをひらがな表記で挟んで、いわゆる抜き球のような味わいに。

背番号18にしてサングラス/仁部四郎「NHK俳句テキスト 2023年8月号」

球場でかけているスポーツタイプのものなのか、球場外でかけている普通のタイプなのかはわからないが、エースに求められる正のイメージとサングラスから受ける負のイメージのギャップ。にして、が上手いな思う。なのに、だと皮肉が強くなってしまう。

聞きづらいときは顔寄せてくれることも灯台の灯のやうで近づく/染野太朗「初恋」

一見、灯台の灯という表現は非効率にも思えるが、建造物ではなく光で喩えることで存在だけでなく動きやベクトル(物理的にも心理的にも)も見えてくる。

今日もまた誰かが「論破」と叫んでる ケツにちょっぴりうんこをつけて/加勢犬「場歌」

うんこって風呂にでも入らない限りどうやっても完全には拭ききれなくて世の中のほとんどの人がちょっとだけケツにうんこをつけたまま生活している。そのことを自分も認識していたはずなのに文字にしたことがなかったので悔しい。

月日とは悔いの連なり 二年目の社員の退職願をひらく/星野珠青「パチパチの会」

連続の感じがせずに目は覚めて聞こゆ遠くの空壜の音/嶋稟太郎「パチパチの会」

いずれも「時代」をテーマにした連作より。上句は対照的ながら、退職願と空壜の音はどちらも終わりと始まり(退職→再就職、廃棄→リサイクル)を連想させる。

たくさんの花の名前を知っている亡母の周りにたくさんの花/金森人浩「ひとなみ」

癌で亡くなった母を詠んだ連作より。高齢者の葬儀に訪れるのは主に遺族の知人であり故人と面識のない者も少なくない。五十代で亡くなった母は見知った顔に囲まれてあの世に行けただろうか。

野良猫にまると名付けてまるきみに川の蛍を見せて死にたい/藤波えりか「ひとなみ」

ほのぼのした歌かと思って読んでいると最後にドキリとさせられる。川は入水、蛍は弔いを連想する。

ケータイを没収された高橋が職員室でお菓子食べてた/真島朱火「星に願いが届くころ」

経験したことはないが分かり具合が尋常じゃない。この感覚、嘘でもいいから体験談として語りたい。

浜ノ家の八十六番浜日傘/暖井むゆき「句具ネプリ2023夏至」

自分に知識がないだけで他の何かを詠んだことなのかもしれないが、浜ノ家というお店(固有名詞じゃなくて海の家のことなのかな)のレンタルビーチパラソルをイメージした。番号がでかでかと書かれたデザイン性無視の昭和感。数字の大きさに海水浴全盛期を思う。

姿見を祖父が通つてほととぎす/クズウジュンイチ「句具ネプリ2023夏至」

祖父が普通に鏡の前を横切っただけなのかもしれないがこれが亡くなった祖父だったら、あるいは鏡の世界と現実の世界を往き来しているのだったら、などと不穏な想像がかきたてられる。夏の季語である「時鳥」とも秋の季語である「杜鵑草」ともとれるほととぎすとの相性も良い。

素足投げだしてねるねるねるねかな/このはる紗耶「句具ネプリ2023夏至」

実際にねるねるねるねを食べているとも、横になることを戯れてねるねるねるねと言っているともとれるが、いずれにしても子供らしさと季語が合う。

祖母たちの床柔らかき羽蟻の夜/西川火尖 「句具ネプリ2023夏至」

羽蟻が出る祖母の家は古い木造家だろうか。床はゆかではなくとこで読んだ。柔らかはふかふかというより湿ってくたくたの万年床。寝苦しそうである。

十二月合宿行ってシュッスパッ/そうすけ「句具ネプリ2022冬至」

素振りの音、パンチの音、キャッチの音、ネットを揺らす音、墨をする音、人参を切る音。シュッスパッほど合宿を表すのに最適な擬音があるだろうか

雪女電池を逆に入れてゐる/詠頃「句具ネプリ2022冬至」

熱に関することで雪女が人間と逆のことをする句は自分でも作ってみたことがあるがナンセンスすぎたり面白すぎたりうまくいかなかった。電池を逆に入れてしまう行為を人間もやりがちであるため違和感がない。雪女と電池の冷感も合う

合格の兄へ鯛焼全種類/緒方朋子「句具ネプリ2022冬至」

鯛焼という軽い品がいかにも妹や弟らしく、それでも全種類としたところに特別感がある

具は別の皿に盛られる日高屋の冷やし中華の麺のつやめき/嶋稟太郎「羽と風鈴」

淡々と客観的事実を述べていき最後の「つやめき」で初めて主体の心の動きをちらっと見せる。「の」を四回も重ねていて小気味いい。

座ぶとんのくずれ落ちたる文化の日/舘野まひろ

家屋の洋式化により積み上げられている座布団を見る機会はめっきり減った。地域性もあるだろうが自分は旅館や会館のような場所、「文化の日」という季語から落語や高齢者の集うイベントなどを想像。そうすると「くずれ落ちたる」の滑稽さも効いてくる。

木製のサラダボウルが回されて四人目までが取りすぎている/鈴木ジェロニモ「半年たったんか」

逆に遠慮して余っちゃうパターンもあると思うのだが足りなくなるとこを見ると気が置けない仲間なのだろうか。木製というどうでもいい情報がリアリティを生んでいる。歌全体が人生の比喩のようにもとれる。

課長のじゃ別にないけど係長が課長の窓と呼ぶ窓がある/袴田朱夏「半年たったんか」

課長のデスクの横にあるからなのか課長がよく空を眺めている窓なのかそれとも何かの比喩なのかはっきりしたことはわからないが感覚は何となくわかるなあ、と思うそういうところをうまくつかれたなあ、と思う

はじめての恋人でしたあげたもの全てがわたしの処女作でした/立葵ゆら「半年たったんか」

初めての○○を処女○○と表現することを利用して初めての恋人に捧げたものの中に含まれているかもしれない本当の「処女」には触れずに完結させる面白い手法。

立葵嫌いなんだよ強風に倒れてもまだまっすぐなんて/赤片亜美「半年たったんか」

単に強い者への嫉妬ともとれるが、名前からして立っていることを強要されている植物に倒れたくても倒れるわけにはいかない自分を重ねて見ているような気がした。

目薬が目から鼻へと流れてく地元民しか知らない道で/丁香花古「うたの日」

目から鼻に抜ける孔をただの道ではなく地元民しか知らない道としたところに諧謔みがある。

四車線道路の中央分離帯つらぬいている獣道あり/うをみ「うたの日

景をそのまま詠んだだけだが「自動車という人工的な獣が通る道路という人工的な獣道」と「本当の獣が通る獣道」が交差する様子がダイナミックに伝わってくる。

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自由律俳句

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