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死のうとしていたテレビ業界末端ADが、明石家さんまさんに、人生を救われた話。

バブルが崩壊した1992年。
14歳の岩崎恭子が今まで生きてきた中で一番幸せな瞬間をバルセロナで過ごし、
貴花田関がサンタフェと婚約し、ガラガラヘビがやってきて、モックンが周防正行監督にまわし姿でシコ踏まされていた、あの時代。

のちの”日本一明るい低所得者”が、神奈川県茅ヶ崎市で産声を上げました。
「サザンビーチの堕天使」と呼ばれた母が丹精込めて、
この世に産み落としたのが、私です。

2022年3月現在、29歳。仕事は、放送作家です。
テレビや映像コンテンツの企画構成や台本を作ったり、イベントの構成を行ったり最近流行りのコンテンツを作ったり…相席居酒屋でカッコ付けたいときは、
「新進気鋭のクリエイター」ぶることができる職業です。

まぁ実際はそんな輝かしい世界ではなく。
「テレビ界の何でも屋」というニュアンスが強いと思います。
ロケでADや現場仕切りをやることもあれば、編集もやることもあれば、1年目のADさんに「ドトール行くなら、僕、カフェラテでいいんで!」とパシられることもあります。
(もちろん、才能のある放送作家さんたちは全くこんなことないです!私のような底辺放送作家だけです)

男30歳を手前に何者でもなく、才能の無さに抗り、テレビ業界の崖っぷちに
無理やり爪を立てて、日銭稼ぎをライフワークに生きております。

育ちは雪国、秋田。
生まれた時から絵に描いたような、クラスに1人はいるタイプのお調子者で
ひょうきんで注目を浴びるためならなんでもやる、7月生まれとは思えないほど
天然の陽キャでした。

でも、”ナチュラルボーン陽キャ”の私が、29年の人生で一度だけ、
本気で「あ、死のっかな。」と思ったことがありました。
今となっては笑い話、でも、当時はマジでした。
年齢は新卒で社会人になってから2年間くらい、
中2病でもメンヘラでもありません。

そんな死のうとしていた私を救ってくれたのが、
お笑い怪獣・明石家さんまさんです。

テレビ業界末端中の末端が、なぜテレビ界の頂点に人生を救われたのか。

もしかしたら、社会人の誰しもがぶつかる壁かもしれません。
今、ちょっと人生諦めかけている人に届いて、クスッと笑ってもらえたら…
そんな一縷の期待を込めて、暇つぶしに読んでいただけたら嬉しいです。

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父は秋田でテレビ局に勤めていました。
なので私にとってテレビの裏方の世界は、とても身近なもの。
ひよこが親ニワトリを追いかけるように私も自然と同じ道を意識していきました。

それ以前に、ど田舎という環境から、幼い頃の娯楽は「丘」「川」「テレビ」。
外で遊ぶ時間とポケモンやってる時間以外は、全てテレビを見て育ちました。

仕事で忙しい父との会話が「おい、今日はおもしろいテレビやってんのか?」と
聞かれ「朝刊の番組表見た感じだと、今日は…」という、共通言語がテレビだったという環境も、テレビっ子に育った所以だと思います。
めちゃイケ、はねトビ、笑う犬、ワンナイ…生粋のフジテレビっ子でした。

一時は教師を目指すものの、人に物を教えられるレベルの学力が追いつかず断念。
就活で筆記試験を受けた際、円の面積を求められて「習った記憶ねぇなぁ…」と
感じたので、早めに気づいてよかったです。

高校を出て、日本大学芸術学部放送学科に入学。
テレビっ子にとっては、桃源郷のような生活です。
テレビの歴史から作り方、企画の仕方、脚本の書き方…テレビまみれの4年間!
番組制作や、キー局主催の夏のイベントでバイトしたり…
神宮球場フリーパスを手にしたヤクルトファンの如く、
大好きなテレビにどっぷり浸かりました。

テレビマンになる。それは幼稚園の頃からの夢。
幾度か生死を彷徨いながら、病室に同僚を呼びテレビマンとして仕事をしていた父の姿に、宿命じみたものを感じた22歳のガキが、
東京で今まで経験し学んできたことをテレビ制作で活かしたいと、
制作会社の門を叩くのはごく自然のことでした。

2015年の春。
テレビ界で働くことをずっと夢見てきた田舎のクソガキは、
都内の番組制作会社に正社員として入社。
テレビ業界の末端の末端ADになりました。

この時、私は、大きな過ちを犯していたのです。
働くということ、社会人という意味を理解していませんでした。

若気の至り。その一言で片付けるには物足りないほどの勘違い。
同世代の誰よりもテレビを知っている、テレビマンという人種を知っている。
即戦力だ、なんでもできる、自分には才能がある、体調が芳しくなかった父のことを考えると、いち早くディレクターデビューして親に認めて欲しい…
「仕事の仕方」を学ぶべき時期に、仕事で最も必要なコミュニケーションを疎かにして、編集技術や会議で自分の考えやネタを通したい。
そんな思い上がりのクソガキでした。

私の大好きな漫画に、こんな台詞があります。
『オレは、オレのことでいっぱいだった』
自分は何者かになれると信じた愚かな若者のプライドとエゴの塊を盾に、
自分を守ることで精一杯でした。

先輩や同僚と距離ができ、会社の”問題児AD”となるのは、当然の流れ。
おかしな話かもしれませんが、同時に、自分のせいで迷惑をかけてしまっている
罪の重さも理解していました。
なんとか挽回しよう、戦力になろうとやることなすことが裏目に出て失敗。
そりゃそうです、それ以前の人としての問題が山積みでしたから。

でも、できない自分を認めたくない。目標への焦りからくる性格が、
自分の首を物理的にしめていきます。

当時はまだ、働きかた改革以前の時代…
週1の休みがあれば良い方で、終電で帰るのは当たり前。
食事もフリーダムな時間にストレスで爆食する生活。

孤立し、その原因が自分にあることもわかりながら、
どうにもできないストレスで、
私は30kg近くも太り、体重はMAX102kgまでいきました。
体臭も変わり、いびきがひどく無呼吸症候群でさらに寝不足。
絵に描いたような、不潔ADでした。

さらに、今は誰にも認められなくてもいい、いつか演出ができた時にと、
終業した夜中から録画したバラエティやドキュメンタリー番組を見ながら、
ノートに書き起こしてテレビ研究を朝まで続けて、さらに寝不足。
先輩たちより遅く出勤する日も目立つように…
間違った努力をしていることすら、自分で認められなかったのです。

ある日、定期的な上長面談でのこと。
上司である演出家の方に言われました。
『お前は採用する予定ではなかった。
 採用権を持つ複数人のうち、ほぼみんなが反対したが1人だけ、
 面白そうだから採ってみようと言った人がいた。
 その人のおかげでお前はここにいるだけで、いつ辞めてもらっても構わない』

事実上のクビ宣告。社会人としての戦力外通告。
何より、テレビマンとしてお前には価値がない、私の耳にはそう届きました。
未熟な人間、でも何か磨けば光るものがあるかもしれないと信じてやまなかった
根拠のない自信が、消え去りました。

振り返れば、否定されて当然ですが、日々の人間否定・人格否定は時として、
”死んだほうがマシだ”と思わせる引き金になります。

テレビが大好きでテレビのこと学び、テレビ制作中毒者の血が流れる、それだけが自分の生きる意味であり、社会への価値だと勘違いしていた、社会不適合者。

病院に行けば、うつ病と判断してもらえたのかもしれません。
でもそれは負けだと、そんな状態になっては仕事ができないと、誰にも弱さを吐けずにいた、お調子者の陽キャは、ある考えに行き着きます。

「もういっか、死のう。」

正常な判断もできない。親からも、友達からの連絡も無視。
テレビへのプライドとエゴの塊ゆえに、役に立たない、誰にも求められないという地獄が、自分をおかしくしていきました。

部屋の中にはロープ状に結んだシーツを、常に枕元に置いておき、
終電で帰れた日には住んでいたマンションのベランダから下を覗いていました。
通勤で使っていた大江戸線のホームに行くたびに、飛び込んだらいかにラクか、
飛び込むなら朝は止めよう、朝よりは迷惑をかけない、終電にしよう。
最後の晩餐は、会社の近くにある「なか卯」の親子丼だな…うん…
「なか卯」、か…。

さすがは100kg超えのお調子者。食い意地のシャレも思いつく。
それくらい冷静に「いつ死んでもいい状況」を頭に描きながらも、
親や友人が泣く姿を想像して、思いとどまる24時間を繰り返していました。

そんな、ある日。ADとして働き始めて2年目の頃。
日本テレビのある番組に配属されていたため、
仕事で汐留本社のエレベーターを、1階で待っていた時のこと。

扉が開いた瞬間、5〜6人のお偉方おじさんたちが囲む中心から、
神が降りてきました。

そう、あの人です。

時が止まりました。
一瞬硬くなった私を、わずかに残っていたテレビマンとしての本能が動かします。

エレベーターの正面に立っていた私は、
ドイツの軍隊よろしく超高速右回り右をして、90度に頭を下げると、
考えるより先に声が出ました。

「お疲れ様です!!!」

お偉方おじさんたちには、異様な光景だったはずです。
太った不潔の若くみすぼらしいADが急に深々と頭を下げ、
目の前に現れたのですから。
ドラクエやポケモンなら「イカれたてきがあらわれた!」状態です。

その時、死のうとしていたADの頭の上から、神のお告げが鳴り響きました。

「お疲れさん」

テレビ界の頂点、明石家さんま師匠から、
テレビ業界末端中の末端に声をかけていただいた…

しかも会ったこともない不審者、見るからに不潔で汚らしいデブADに。
ノールックで一切こちらを見ず、ごく自然に。


「さんちゃん……カッコいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


夢にまで見た、”恋愛蒲田行進曲”!!
紳助師匠・さんま師匠の名作コント「洗濯女」の気持ちがよくわかりました。

それまでの人生で、もし男性に抱かれるとしたら木村拓哉さんだけだと
固く心に誓っていたのですが、さんま師匠もスタメン入りした瞬間です。

あんなフランクに、底辺の人間に「お疲れさん」と声をかけてくださるスターが
この世にいたでしょうか?
言葉通りの”神対応”…これが頂点・明石家さんま師匠。

同期のADも、もしかしたらディレクターさんやプロデューサーさんも含めて、
テレビマン人生でさんま師匠に声をかけてもらえる人がどれほどいるでしょう。
さんま師匠の番組スタッフでもなく、ただただ見知らぬADとして声をかけてもらえた奇跡の数秒間を、私は過ごしたのです。

大学のバイト時代から含めて、テレビ業界に入って6年。
私は人生で初めて、「この業界に入って良かった」と思いました。

いつかさんま師匠とお仕事がしたい。
幼い頃からテレビの世界に燦然と輝いていたさんま師匠に、
テレビマンとして再び、お会いしてみたい。
人生に新たな目標ができた時、心に陽が燈ります。

「死ねない。もう一度、さんま師匠に会って、お疲れさんと言われたい。」

毎日死のうとしていたADは、こうして生きる意味を見つけました。
もう、死のうだなんて考えません。
さんま師匠の教えがありますから。


「生きてるだけで、まるもうけ。」って。


会社はその後退職しますが、高校生のころから夢だった放送作家に転身。
いまだ代表作なし…売れない毎日ですが、楽しい人生です。
今はもう、”日本一明るい低所得者”だと開き直って生きています。

あの時の未熟な自分を猛省して、感謝や礼儀、人に尽くすこと…
少しずつですが、意識を変えて、
求められる人間でありたいと過ごせるようになりました。

素直に弱さを認め、才能のなさをガムシャラにカバーする姿勢だけが取り柄です。
誰にでも好かれたいお調子者気質は変わってないですが…。

NBAにはマイケル・ジョーダンが、
ボクシングにはモハメド・アリが、
ディズニーにはミッキーマウスが、
テレビ界には明石家さんま師匠がいる。

小学生の頃から、今でも欠かさず、さんま師匠の番組は見続けています。
うまくいかないことがあって”心はロンリー”になっても、へっちゃらです。
テレビの世界に、命の恩人がいる限り。

この5000文字は、誰のために、何のために書いたのか。
自分でもよくわかりません。
ムダなのかもしれないし、ムダじゃないのかもしれないし。
でも、ムダに生きるって、案外面白いです。

諦めない時間こそムダかもしれませんが、それでも。
さんま師匠と番組ができる日まで、頑張ります。
年齢的にも、今年は勝負の年です。

だって、今年で30…しっとるけのけ?

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