カラス〜誰かの私小説風〜
「あなた、カラスには気をつけて」
妻は言った。
ナルの散歩(我が家の黒い犬)の時のことだ。
周囲を警戒しながらこの街を歩く妻の様は、
まるでジャンレノがかつて演じたレオンである。
「なにを藪から棒に」
そう私が言うと、
「カラスよ。電線にとまっているカラスのことよ」
間髪入れずにレオンは、いや、彼女は言った。
「ヤツら、私たちを狙って糞を落とすのよ」
「そんなことあるもんか。この街のカラスに限って」
「この街もあの街も関係ないわ。私は頭上にカラスを見つけると、電線の下を歩くなんてことはしないの。だって、糞を落としてくるんですもの、必ず、必ずよ」
「それは鳥類嫌いを豪語する君の被害妄想だろう。もっとも、これまでの人類とカラスの歴史の中で落とした糞がついてしまったってことは、まるっきりないわけじゃないってことくらいは十分に理解しているつもりさ。完璧なカラスも、完璧な人間もこの世に存在しないようにね」
カラスに悪いやつはいない。
いや、この街にいるはずもない。
それがここで暮らす私の持論であった。あくまで私の。
ある日のこと、何日も吹き荒れた風がやんだ海辺の街。
そう広くない道路の上、雲ひとつない空を、幾本もの電線が横切っている。
私はいつものようにナルと一緒に歩いていた。そう、電線の真下を。
なんといい天気なことだろう。
何気なく空を見上げながら歩いていると、
どこからともなく烏がやってきて、私とナルが歩む数メートル先の電線に
止まった。
カァ、カァ。
ふた鳴きほどしたであろうか、
電線の上のカラスはスマートな仕草で180度向きを変えた。
カラスのいる電線の下を歩く私とナル。
ふと、妻の言っていたことが頭をよぎり、もしやとカラスから目を離さず歩き続ける私。
尻の向きをこちら側に変えたカラスから、白いものが出てきた。
そろそろカラスを真上に見上げる程になりかけたその時、
彼の尻から糞が放出されたのだ。
私とナルの歩む速度を計算してのことだろうか。
そのタイミングは完璧に近いものであった。
完璧な人間も、ましてや完璧なカラスだっていないのに、である。
しかしだ、彼の尻から出てくる白いものに気づき、スピードを緩めたことが
幸いし、私の爪先の前にボチャリとソレは落ちた。間一髪の出来事であった。
カラスめ。お前め、、、。
レオンの、いや、ジャンレノの、もとい、妻の言うことが証明された瞬間であった。
ヤツは狙っていたのである。
人をヨゴレにするために。
海辺の、長閑なこの街で。
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