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うっとりする手

いつもの地下鉄のいつもの車両に乗っていると、いつもの同じ人たちがいる。毎朝会うのに、お互い顔見知りなはずなのに、あいさつはしない、よくよく考えると不思議な関係。

その中の一人に、つり革の位置を一つずつ直していくお兄さんがいる。

おそらく何かしらの障がいがある人だと思うが、毎日毎日、同じ時間の同じ車両のつり革を、はじから順に一つずつ「ぐっ」と両手でにぎり、ちょっとしたゆがみを直していくのだ。

はたから見ていると、どこが気になるか分からないが、その子にしか分からないこだわりがあるのだろう。時間にして3分程度で、その車両全部のつり革をチェックしていくのである。

僕は、そのお兄さんの毎朝のルーティンを見るのが割と好きなので、横目で見ながら、次の駅までの時間を過ごしている。どうして、その姿を見るのが好きなのだろうと考える。一つ一つの丁寧な作業を見ていると、何とも言えない不思議な感情が芽生えるのである。

そういえば、近所に3年ほど前につぶれてしまった小さな書店があった。僕は、そこの店主が本にカバーをかける手さばきが、すごく好きだった。

たかだか、本にカバーをかけるだけなのだが、本のカバーをその本に合わすとき、本のサイズに合わせてカバーを折るとき、できたカバーを本にかけるとき、その一つ一つの動作に一点の無駄もなく、正確で、そしてすべての所作に、祈りにも似た、何か神がかったような錯覚を覚えて、そのカバーをかけている時間を黙ってみていると、何とも言えず、心が温かく優しい気持ちになったのだった。

所作というと、10年くらい前、茶道を少しだけ習っていた時期があった。その時の先生の手さばきも、見ているだけでうっとりするような、何とも言えない不思議な感覚があった。

言葉にするとなんてことはない、お茶を入れているだけなのだが、それでも、その手さばきは、飽きることなく何時間でも眺めていることができたのだ。

そういえば、最近ではYouTubeで、靴磨きをする動画をずっと見ていたこともあった。声も音楽もなく、ひたすら靴をブラシでこすり、ピカピカに靴を仕上げていくだけの動画だ。プロの靴磨きで、銀座で店を構え、世界大会でも優秀な成績を収めた、その世界ではかなり有名な人らしい。

そんな人の靴磨きも、やはり一つ一つの動作に無駄がなく、正確で、それでいて品がある、素晴らしい技であった。

その動画を見ているときはまるで気づかなかったが、あらためて今この文章を書いていると、僕が好きになる、ここまで上げた人たちすべてに共通することがあった。

何年も何年も、同じことをひたすらにしてきた人たちの、たどり着く境地とでもいうのか、ただただ、自分の心をその対象物に一点に向けて、ひたすら研鑽を積んでいった、その「手」と「心」。

先ほども書いたが「祈り」にも似た、一連の型。

そういうのって、きっと言葉では言い表せないけれど、何千何万と繰り返された型、そしてその一瞬一瞬の型に込められて思い。そういうものが、一つ一つの動きにすべて積み重なって、見ている人の心が震えるんだと思う。

そしていつか、僕もこういう技ができるようになりたいなと淡い期待を抱いている。

もちろん、僕らの仕事は華麗な手さばきや技を見せることではない。

しかし、何百何千と繰り返すことで、相手が同じような感覚を得ることができるようになるものがある。

それは、自分自身が発する「声」だ。

自分から発する声によって、子どもが、安心したり幸せな気持ちになったりする。そんな「声」が出せるようになりたいと思っている。

時々、いるよね。そういう声の人。

聞いているだけで心地よい、そんな声の人。

そんな声が出せるようになったら、なんていいだろう。

「大丈夫?」「ありがとう」「よくやったね。」

同じ言葉を言っても、相手への伝わり方が全然違うのだから。

だから、いつかそこにたどり着くために、一つ一つ自分自身が発する言葉に、先ほどの人たちと同様に「心」と「愛」をのせていけるようにしていきたい。

「何を言うかではなく、誰が言うか?」

これは、僕が好きな言葉の一つ。

あなたの言葉、声で安心した。

そんな言葉と声が出せる人になりたいと願う。


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