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いま、日本人がほんとうに学ぶべきこと②

前回の記事で、「日本人は、世界で最も勉強しない人たちである」という衝撃的なレポートを紹介したうえで「社会人が業務とは関係ないことを勉強することの意義って何?」という点について考えてみた。

(前回のポストはコチラ👇)

私は「社会人が勉強する意義」とは「教養(見識)」を身につけることにあり、その目的は「偏ったモノの見かた」から少しでも自分を解放することにあると考えている。

自分の「偏ったモノの見かた」に気づくことができると、普段やっている仕事の捉え方や成果に対する考え方がちょっとだけ変わり、

今日は我ながら良い仕事ができた気がする!

と、ちょっとだけ自分の仕事に自信が持てる機会が増えるようになる。

そこで今回は
①「偏ったモノの見かた」とはいったい何か?
②どうやったら「偏ったモノの見かた」から解放できるのか?

の2点について考えてみる。

①「偏ったモノの見かた」とは?

私たちが無意識のうちに陥りがちな「偏った思考」はたくさんあるのだが、今回は代表的なものを3つ挙げてみる。

1. 二元論的思考

1つ目は「世界中のあらゆる事物を二項対立で捉えてしまう」モノの見かただ。対立する二項の例としては以下のようなものがある。

・善か?悪か?
・敵か?味方か?
・美しいか?醜いか?
・優れているか?劣っているか?
・勝ちか?負けか?
・西か?東か?
・キノコか?タケノコか?

家庭内、学校内、職場内、地域内、国家間、ありとあらゆるところでこの「二項対立」の思考が顕在化している。

「クソ、アイツ味方だと思ってたのに敵だった。絶対に許さねぇ!」
「あの子達ってブサイクよね~私の方が絶対キレイだし!」
「正義は我らと共ににある!悪は滅ぶべし!」

二項対立で世界を捉える」ということは、すなわち自分の身をどちらかの陣営に据える(=自分は常にこちら側の人間だと固定する)ということだ。

自分は常に『善(=正義)』だと信じて疑わない人たち

善か悪か」の分かれ目なんて「時と場所」によっていくらでも変わる。永遠に不変の「絶対的な善」とか「絶対的な悪」なんてものは幻想でありファンタジーだ。この世界はそんな単純ではない。白100%と黒100%の2種類しかないのではなく、白と黒のグラデーションがこの世界の本当の姿なのであって、そのことは歴史を少しでも学べば分かることだ。

この世界はグラデーションでしかない

2.科学偏重思考

これは「科学的であること」に対して無意識に信頼を置き『過ぎる』という考え方だ。ここでいう「科学的であること」とは、定量的に測定・評価できることに価値判断の基準を置くスタンスを指す。

いま風にわかりやすく言えば、コスパ(コストパフォーマンス)タイパ(タイムパフォーマンス)重視の考え方ともいえるかもしれない。定量的に物事を判断するという視点は不可欠なのだが、それに固執していると肝心なことを見落としかねない。

例えば「エッセンシャルワーカー」の待遇問題は、科学至上思考による弊害の一つの例と言える。

「エッセンシャルワーカー」とは、社会インフラ維持に必要不可欠な職業に従事する労働者のことだ。例えば「医療従事者」「消防士」「運転手」「教師」「保育士」「介護従事者」などが該当する。

エッセンシャルワーカーの一つ、保育士さん

エッセンシャルワーカーは社会を根底から支え、AIやロボットでも替えの利かない「人間による尊い職業」であるにもかかわらず、劣悪な労働環境と低い待遇のため担い手が減っている。一方「コンサルティング業」や「広告制作業」などは多額の報酬を得られ、学生の就職先希望ランキングでも常に上位にある人気の職業だ。

保育士の平均年収は382万であるのに対し、コンサルタントの平均年収は1,000万を超えるそうだ(業界にもよるが)では、保育士の価値はコンサルタントの価値の1/3しかないのだろうか?時給1,500円の仕事時給20,000円の仕事にどれほどの優劣があるというのだろうか?

時給20,000円の経営コンサルタントなら、年商1億円の企業経営を立て直すことができるかもしれない。それはそれで立派な成果だ。でも時給1,500円の保育士や時給2,000円の教師が、将来の藤井聡太大谷翔平を輩出するかもしれない。そこまで有名でなくとも、将来の日本社会を支える多くの子ども達を教え、守り、導くのが保育士や教師という仕事だ。

定量的に測定できる年収偏差値経済的な算出値だけで良し悪しや優劣を判断してしまうのはあまりに愚かではないか。

サン=テグジュペリの名作「星の王子さま」でもこう書いてある。

サン=テグジュペリ 星の王子さま

「大切なことは目には見えないんだよ」

誤解なきように言っておくが、私はコスパやタイパが「悪」であると断じているわけではない。大量の情報に溢れた現代社会でコスパタイパの考え方ナシではとてもやっていけない。「目に見えるもの」だけを是とした偏ったモノの見かたが危険だということだ。その意味ではこれも前述した「二元論的思考」の延長である。

3.機械論的世界観

これは「この世界は機械で出来ている」と捉える「モノの見かた」だ。もちろん、ここでいう「機械」という表現は比喩(例え)だ。べつに地球が機械で出来ていると本気で考えるわけではない。

その本質は、この世界は「小さな部品の集まりで出来ている」と考えることにある。「小さな部品」とは「他者」や「自然」つまり「自分以外のすべて」を指す。

他者自然を「部品」として捉えるとはどういうことかというと、

・消耗品である (使い倒してナンボ)
・交換可能である (ダメになったら取り換えればいいや)
・個別性がない (それぞれに固有の価値はない、みんな同じ)

こう捉えているということだ。

だからこんなこと👇ができてしまう。

①後のことを考えない自然破壊行為

南米アマゾンの森林破壊
不法投棄された産業廃棄物

②重労働を強いる、劣悪な労働環境を放置する

過労死

③人権を侵害する、他者を蹂躙する

ウイグル族への人権侵害を訴える人

「部品は所詮は使い捨て、替えはいくらでも利く」
「ダメになったら、交換すればいいだけのこと」

政治家」や「経営者」のように人々を導いていく立場にある人がこのような世界観の持ち主だと、市民や従業員はたまったものではない。

第二次世界大戦末期に旧日本軍が考えた「人間魚雷(回天)」などは、機械論的世界観の極致である。人間を兵器として扱うなど、いったい人間を何だと思っているのか。

DIGドキュメント/ATV

②科学至上主義で取り上げた「エッセンシャルワーカー」の待遇問題もここに端を発する。政治家や経営者が「単純な肉体労働しかできない部品」としてしか、こういった職業の従事者を捉えていないからだ。(厳密には政治家や経営者だけでなく、サービスを使う消費者にもこの世界観は蔓延している)。

個人的には、機械論的世界観の最大の欠点は「創発」を活かせないことにあると考えている。

創発」とは「部分の性質の単純な総和を超えた特性が全体として現れる現象」のことで、要するに「1+1+1が3ではなく5とか10になる」ということだ。

例えば「🐜」は、個体だと力も弱くできることが限られるが、統率の取れた集団行動により巨大な蟻塚を築いたり、大きな獲物を仕留めることができる。個体としては取るに足らなくても「集合体」として「1つの生命体」になることで全く次元の違う特性を持つことができるのだ。

しかしこの発想は「機械論的世界観」からは決して生まれない。なぜなら「機械論的世界観」ではどうやっても1+1+1は3にしかならないからだ。

以上「偏ったモノの見かた」の代表的なものを3つ+α挙げてみたが、私たちが知らないうちに染まっている「偏ったモノの見かた」は他にもまだたくさんあるはずだ。

②どうやったら「偏ったモノの見かた」から解放できるのか?

どうやったら「偏ったモノの見かた」を知ることができるのか。いったい何を学べば「偏ったモノの見かた」から解放されるのか。

というところまで本ポストで書こうと思ったが、書いているうちにまた長くなってしまったので、続きは次回!😂


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